君は知らなくていいよ

日名はガッカリと肩を落とした。
すっかり寒くなってきた今日この頃、通勤手段である自転車のタイヤがパンクしてしまったのだ。
最寄りの駅は徒歩15分という微妙な場所にある。雨や歩きでの通勤はテンションが下がる。最も、感情を表に出さない日名の浮き沈みなど周りは気づかないだろうが。
でも――

「たまにはいいかも」

寒いと言っても太陽が出ていればポカポカと温かい。吹く風は冷たく、心地いい。
枯葉が擦れる音に日名は地面へ視線を落とした。茶、赤、黄の葉がカーペットのように点々と落ちていた。
そうか、もうそんな季節なんだ。日名は感嘆の溜息を零した。白い息。
横断歩道の手前で止まり、信号が変わるのを待った。ぼーと宙を見据える。遠くからは鳩が鳴く声と少ないエンジン音が聞こえた。

「眠たい…」

歩道信号はまだ赤のまま。眠気に思考がふわふわする。
昼食はコンビニで軽く買っていくか。そう、日名はもうあの食生活とはおさらばしたのだ。あの極上の偽物の笑顔を浮かべた白衣の男のおかげで。
カツン、カツン。革靴の音が背後の方から聞こえてきた。
そういえば。日名は瞳を微かに伏せた。あの人の闇はどうなったのだろうか。
未だに相良の双眸の奥に感じるものがある。彼は自分よりも大人だ。だから心配しなくても大丈夫だろう。それでも気になってしまう。
そんなことを考え、ぼーと前を見据えたまま信号待ちを続ける。

「あれ、日名先生、奇遇ですね」

隣をチラリと見上げ、日名は小さく控えめに笑った。

「おはようございます」

「おはようございます」

相良の挨拶を会釈を交えて返す。
相良が何か言おうと口を開きかけたとき、どこからか口笛が聞こえてきた。
リズムをとるように靴音も聞こえ、相良と日名は同時に後ろを振り返った。黒い上品なコートを着た――森山卓医師。
どこか機嫌が良さそうに見える。というか彼は車じゃないのか。日名は戸惑うように森山を見つめた。
数歩歩いたところで森山がこちらに気づく。

「あーれぇ?相良先生と日名先生じゃないか」

「森山先生、おはようございます」

相良は朗らかにそう挨拶した。「Gooood morning」と返す森山に向かって日名も挨拶する。やはり弾むような調子で返ってくる挨拶。
歩道の前に並ぶ背の高い男2人と女1人。挟まれるようにして信号を待つ日名は何だか落ち着かなかった。
先輩に当たる相良、自分の先生に当たる森山(技術面に関して言えば森山の元で育ったので)に挟まれるなんて何だか変だ。

「森山先生、車はどうしたんです?」

「ふん。パンクしたんだよ。お前こそどうしたんだよ、相良」

「奇遇ですねー僕もパンクしてたんです」

ニッコリと微笑む相良はそう言った。
森山は「何だ、お前もか」と言い、次にこちらへ視線を落としてきた。
相良の視線も受け止め、陽葵は重たげな口を開いた。

「私も自転車、パンク、してました」

「……」

「……」

「……」

3人は一斉に視線を交わし合った。
3人とも、パンクという事態は可笑しい。しかも同じ職場の同じ外科医の3人が。

「まさか相良…お前の仕業」

「違いますよ、僕じゃありません」

そうだ。そのようなことをしてもメリットなんて一つもない。
考え込んでいると森山から視線が注がれるのを感じたので「私でもありません」と返しておいた。

「じゃあ、何だ。堂上総合病院に恨みでもある奴の仕業か?」

唸るようにそう言った森山に相良は笑い声を上げた。
相良に笑われたことが気に入らないのか、森山はムッと相良へ視線を遣った。

「森山先生は難しく考えすぎです。ただの偶然ですよ、偶然」

ねー日名先生、と自分の方を見下ろされ、うーんと首を傾げる。
肯定はできない。森山の意見も頷ける。堂上に恨みを持つ人は医療界にきっとたくさんいる。
だが相良のように偶然という可能性も大いにある。仮に恨みを持つ人がやったことだとしよう。あまりに子ども過ぎではないだろうか。
そこまで考え、日名は一つの仮定を考え付いた。

「…ひょっとしたら身内かも」

ぽつり、と呟いた言葉は森山には聞こえなかったみたいで「なんか言った?」と聞いてきただけだった。
それに対して「いいえ、何も」と返す。身内同士で疑うのはよくない。チーム医療に影響が及んでしまう。
頭上から視線を感じ、顔を上げれば、相良が黙ってこちらを見下ろしていた。読めない表情。
まさか相良が命じたのだろうか。驚きを表に出せば、相良はそっと人差し指を口元へ持っていった。しー、と。

「誰だか知らないけど…おかげで遅刻だよ、遅刻」

森山の言葉にハッとすると相良は何事もなかったかのように微笑み、口を開いた。

「森山先生でも遅刻とか、気になさるんですね」

「ああ?なに言ってるんですか、相良先生。僕はね、真面目ですよ。ま じ め」

*

自分の自転車や、森山の車をパンクさせたのは相良なのではないか。
そんな疑念に囚われて日名は勤務中に何度か相良に声を掛けようと思ったが接触できないでいた。
というよりも彼から避けている気がしてならない。今日に限って彼は医局室に姿を見せようとしないし、会話もしようとしない。
診察から戻り、日名は苛々としながら席に着いた。タイミングよくポケットに入ったPHSが鳴った。

「はい、日名です」

『あ、日名先生?相良です』

思わず日名は立ち上がった。医局室にいる段原と佐々井の視線を感じる。
会って問い詰めたいと思っていた人からの思いも寄らぬ接触に日名はチャンスだと思い、口を開いた。だがそれよりも先に相良が遮った。

『…僕に、会いたかった?』

不覚にもキュンとしてしまった。いや、違う、そうじゃない。
パンクの犯人を突き止めなければ。首を横に振り、日名は抗議の声を上げた。

「ふざけないでください」

忍び笑いが聞こえてきた。この男は楽しんでいるのだ、この状況を。
不機嫌なのがわかったのか医局室から退散していく2人を見送り、日名は顔を顰めた。

「タイヤ、相良先生がやったんですか」

『君から疑われるなんて』

「疑うように仕向けたのは貴方ですよ、相良先生」

『本当のこと、知りたい?陽葵」

不意打ちで名前を呼ばれ、心臓がまた跳ね上がる。
その動揺を悟られないように声を低くして言った。

「はい、ぜひ。タイヤ代、払ってもらいたいので」

はは、と声を上げて笑う相良の声。

『じゃあ、カンファレンス室に来てください』

*

相良の言った通りにカンファレンス室までやって来た。中から声がする。今日はもう会議はないはずだ。だとしたら相良が誰かと話している――?
介入するのも憚れて日名は扉の取っ手に手を添えたまま、迷った。
しかし相良は来るように自分に言った。だったら迷う必要もないのではないか。数秒迷い、日名はゆっくりと扉をスライドさせた。
中を覗き込めば、PHSを耳に押し当て、長テーブルに寄りかかった相良と目が合う。
相良はニッコリとこちらを見て微笑み、手招きしてきた。言われるがままに相良の元まで足を進める。

「はい、ですからそういったことはやめて頂きたいんです」

穏やかな口調でそう言った相良。電話の相手は誰だろうか。

「僕は貴方がやったってこと、知ってます」

相良の傍までやって来ると相良は笑みを深めた。

「証拠?証拠がほしいんですか?…ええ、ありますよ。証拠なら」

相良はそう言うと日名にPHSを手渡した。何が何だか分からない日名は受け取り、困惑したように相良を見上げた。
相良は自身の耳をトントンと指で叩いた。その仕草で言いたいことを汲み取り、日名はPHSを相良の耳へと押し付けた。
相良は満足そうに微笑むと腰をゆっくりと屈め、目の前にあるノートPCを操作した。
画面には作成途中の電子メールが表示されている。そこに画像を添付するつもりらしい。相良は画像フォルダを開き、1枚の画像を日名へと見せた。

「…!」

画像には黒い艶やかな車のタイヤに細工を施すような人間の姿が確認できた。2枚目は相良の車。
3枚目の画像は間違いなく日名の自転車だ。同じく細工を施す男の姿。明らかに細工をしていると分かる画像だった。だとしたら1枚目の写真は森山の車だということになる。
日名の驚きに強張る顔で理解したと思ったのだろう。相良は日名を一瞥し、口を開いた。

「…待っててくださいね。今、送りますから」

相良は手際よく画像を添付すると、送信ボタンを押した。
PHSを押さえる役目はもういいらしく相良はPHSを受け取り、耳に押し当て直した。

「……どうです?届きましたか?」

「ええ、そうです。僕はね、あなたを本気で潰そうと思えば、潰せるって意味です」

相良から不穏な言葉を聞き、思わず日名は彼を見上げた。
安心させるようにふわり、と微笑まれ、何も言えず口を閉ざす。

「次、手を出したら僕は貴方を許しません。いいですね?」

口調も表情も穏やかなのに有無を言わさない言い方だった。
無言でPHSを切った相良にようやく日名は話しかけた。

「この男がやったんですか?」

「うん」

白衣のポケットに手を突っ込み、相良は頷いた。

「病院関係者の恨み、ですか」

「そうだなあ…まあ、それに近いかな」

言葉を濁す相良を訳が分からず、見上げる。視線を受けた相良はやはりニッコリ笑っていた。
「今日は僕と一緒に帰ろう。送るよ」と何故か強制的に約束させられ、仕事へと戻った。

*

「上手くいったのか、相良?」

薄暗いカンファレンス室には森山と相良が一緒にいた。

「ええ、森山先生のおかげで上手くいきましたよ。ありがとうございます」

そっと微笑む相良に向かって森山は鼻を鳴らした。

「ま、当然だな。俺が協力するんだ。成功してなかったらお前のせいだったぞ」

はは、と笑いを零す相良。

「しかし、日名ちゃんも変な男に掴まるんだな。危ない危ない」

「ええ、ホント危なっかしいですよ。本人もストーカーに遭っていること自体に気づかないんですから」

「日名ちゃんのことは任せた。じゃあな、俺ももう戻るぞ」

「ええ、ありがとうございました。森山先生」

森山が出ていくと相良は表情を消し去り、PC画面を覗き込んだ。
画面上の画像に映り込む男の姿。日名の家の前にいる画像、堂上総合病院前にいる画像。様々だった。

「もっと完全に潰したかったんだけどなあ…」

呟かれた相良の言葉は冷たさを帯びていた。




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