お姫様、お手をどうぞ
『貴方ちょっと地味じゃない?』
アリスの脳裏にそんな言葉が蘇る。
職場のあまり仲良くしていない同僚にそう言われたのを思い出してアリスはため息をついた。
仲の良いクレアはそれを聞いて怒ったように「嫉妬してるだけよ」と励ましてくれたが。
デスクワークをいつものようにこなしながらアリスは自身の手を見て再度ため息を零した。
確かに他の女性と比べたら地味なのかもしれない。爪だって切り揃える程度で装飾など施していない。
他の女性はカラフルでストーンなどを使って煌びやかに装飾している。しかしアリスはどうもそれが苦手でならなかった。
つけ爪などは仕事に支障をきたし、生活の邪魔にもなりかねない。地味だけ言われたならこんなにもショックを受けることはなかっただろう。
『そんなんだとレオンさんにも捨てられちゃうわよ?』
レオンは職場の上司で尚且つ、アリスの恋人だった。
彼はもちろん女性に人気があって彼が自分へと振り向いたのも奇跡だと思っていた。
レオンに捨てられたくない。しかし彼は顔立ちが通っていてハンサムだ。
地味な自分なんかと釣り合うはずがない。と今さらながらネガティブ思考になる。
アリスは慌てて自分の考えを打ち消して仕事に集中した。
*
「綺麗になりたい?」
注文したコーヒーに口をつけながらクレアは驚いたように目を見張った。
向かい側で驚くクレアを見ながらアリスはぎこちなく頷いた。
「何を言ってるのよ。アリスは十分綺麗じゃない」
「お世辞はいいから、お願いクレア。化粧とか…ネイルとか色々教えてほしいの」
手を合わせてクレアを見上げればクレアは観念したように息をつき、仕方なさそうに頷いた。
*
「最近、アリス綺麗になったね」
同僚の男性に言われてアリスは印刷した書類を渡しながら、はにかんだ。
あまりストレートに褒められたことないアリスの頬は桃色に染め上がり、自然に乗せられたチークを引き立てた。
それを見た男性同僚はアリスの肩に手を回しながら口元を吊り上げた。
「ねえ、最近レオンさんと一緒にいるところ見ないけど別れちゃったの?」
確かにレオンと最近、すれ違ってばかりなような気がする。
クレアと仕事帰りに彼女の家に寄ってメイクやネイルの研究をしていたらすっかり楽しくなってしまい時間を没頭している気がする。
仕事中ネイルはしないものの、たまにナチュラルに薄くピンク色に塗る程度である。
メイクやネイル、ファッションに夢中になり気づけばレオンの誘いを全て断っていた記憶がある。
レオンはもう愛想を尽かしただろうか。不安になり、アリスは眉を下げながら笑った。
「え…そんなことないけど」
「まだ休憩時間じゃない」
低い不機嫌な声が聞こえてきて男性は慌ててアリスの肩から手を退けた。
アリスはレオンへ視線をやり、「すみません」とお辞儀をする。それを見たレオンは顔を微かに顰め、口を開いた。
「アリス、コーヒーを俺の部屋まで。頼む」
「はい、わかりました」
出て行くレオンの背中を見つめ、アリスはため息をついた。仕事中はこうして個人的に呼び出すことはない。
もしかしたら別れ話かもしれない。
不安に駆られながらアリスはコーヒーを淹れたマグカップを手にレオンに与えられた一室へと向かった。
ドキドキと上昇していく心拍数にアリスは心臓の辺りを押さえてノックをした。
軽くノックをすれば「入れ」の声。
深く息を吸ってからアリス「失礼します」の声と共にドアを押し開けた。
「っ…!?」
入ると思いの外にドアのすぐ傍に立っていたレオンと顔を合わせる。
レオンはアリスからコーヒーを受け取ると扉をすぐに閉めてマグカップをテーブルの隅に置いた。そしてアリスへと振り向く。
「あのレオンさん…何か他に用でしょうか」
「そこに座れ」
一つのパイプ椅子が置かれ、レオンはそこへ座るように促す。促すままにアリスはそこへ腰をゆっくり下ろした。
するとレオンはアリスの片足を掴み、靴を脱がせた。
「れ、レオンさん!?」
「静かにしてろ」
タイツを破かれ、アリスは体を固くさせた。まさかここで彼は…。
しかしレオンはタイツを破り捨てるとおもむろにアリスの足先を眺め、いつの間に用意していたマニキュアを丁寧に塗り始めた。
唖然とそんなレオンを見下ろすアリスは言葉を失って視線を彷徨わせた。
「あ、のレオンさん?」
真剣に塗る彼はカッコよくてやはり自分には不釣り合いなのではないかと思えてくる。
そんなことを考えている間に足の爪を塗り終わり、今度は手をよこせと言うように差し出してくる。
「レオン…これは、何?」
仕事場だということを忘れていつも呼ぶように彼を呼べば、レオンは眉を寄せて口を開いた。
「最近、君は俺に会わずに綺麗になっていく…このネイルは他の男が選んだのか?」
「え、違」
レオンは顔を顰めてアリスの両肩を掴んで顔を寄せた。
「アリス。君は誰のものだ?」
「レオン、聞いて」
「答えられないのか?」
「そうじゃなくて」
「さっきの男か?俺からアリスを奪ったのは」
「レオン!聞いて!」
レオンのジャケットを掴みアリスは見上げて声をあげた。
勘違いしている。そして彼にどれだけ自分が愛されているか分かり、悩んでいた自分が恥ずかしくなった。
しかしここはきちんと説明しないと今後が危うい。レオンは怪訝そうにアリスを見下ろした。
足先が冷たい空気に触れ、身震いしながらアリスはゆっくりと口を開く。
「私…地味って言われたの」
「地味だって?見る目がないな。こんなにも可愛いのに」
頬を撫でられ、アリスは微笑を浮かべた。
「それだけなら平気だった。でもレオンに捨てられるかもしれないって言われて…」
「誰だ、君にそんなことを吹き込んだヤツは」
アリスはゆっくり首を横に振った。その女性の気持ちが分からなくもないのだ。
その人はレオンが好きだっただけ。羨ましかっただけなのだ。
「不安になって私、メイクとネイルを友だちと研究してたの」
「友だち?男じゃないのか?」
慌てて首を横に振る。
「クレアだよ。教えてくれたのは。この色を選んでくれたのもクレア」
そう言えばレオンはバツが悪そうに目を逸らしアリスの両肩を掴んだまま項垂れた。
手で顔を覆いながらレオンはため息をつく。
「俺の勘違いだったってわけか」
「え?」
「いや、何でもない」
「レオン、ごめんなさい…そのために時間がなくて食事を誘われても行けなかったし家に誘われても行けなかったの」
「気にしてない。俺こそ…怖がらせて不安にさせてすまなかった」
ちゅっ、と唇にキスを落とされ、アリスはレオンを見上げて微笑んだ。
「レオン、私のグロスがついてる…」
「そのままで構わない。気になるならアリス、君が舐めてくれるか?」
意地悪な顔でそう言うレオンにアリスは「もう」と言いながら呆れ顔でレオンを見上げる。
喉の奥で笑いながら「冗談だ」と返してきたレオンの肩に軽くパンチをいれる。
「私、仕事に戻るね」
「待て」
椅子から立ち上がろうとしたアリスをレオンは苦笑顔で制した。
「え、何?」
「その格好で行くつもりか?」
アリスは自分の格好を見下ろし、ようやく気づいた。
靴を脱がされ、タイツはボロボロだ。
「どうしよ…」
「待ってろ」
レオンは自身のデスクに近づくと内線を手に取り、ボタンを押して受話器を耳に押し当てた。
「ああ…俺だ。アリスと俺、双方とも早引きにしといてくれ…ああ、そうだ。頼んだ」
「ちょっと、レオン!仕事まだ終わってない」
受話器を置いて内線を切ったことを確認してレオンの背中へ非難の言葉を上げれば、レオンはネクタイを緩めながら振り返った。
その顔はやけに愉しそうで。
「そんな格好でいて反応しない男なんていない。付き合ってもらう、いいなアリス?」
耳元で囁かれ、アリスはレオンからの口付けに応え、溺れていった。