たとえ、記憶を失っても君は君だった


「シャーロック?あの子のところへ行くのか?」

身支度を整えたシャーロックは冬とはまた違って上品でシンプルなコートではなく薄手のジャケットのみになっていた。
背の高い彼はモデルも出来たのではないだろうか。ジョンはこっそりとそう思った。
無表情のままシャーロックは花を手にとった。
そして呟くような声で言った。

「僕のせいで、あんなことになってしまったんだ」

ジョンは首を横に振った。
違う、君のせいなんかじゃない。ジョンはそう言ってやりたかった。しかしどんな励ましの言葉もシャーロックの胸には届かない。
シャーロックに誰がどんな言葉を掛けても彼はずっと自責の念に駆られたままでいる。
ジョンは目を伏せたままシャーロックと共に外へ出てタクシーに乗り込んだ。
シャーロックとジョンと共に捜査に加わっていた少年がいた。
名前はアリスという。
シャーロックやジョンと比べると格段に年下だがとても優秀だった。そして何より忠実にシャーロックの望み通り動いてくれる少年だ。
しかし先日、事件の捜査中に犯人と争い彼は交通事故に遭って意識を失った。
一命は取り留めた。そして…
ジョンは目を閉じて息を吐きだした。
シャーロックはあれからいつも通り過ごしているように見えるがジョンが気づけば哀しい目をしているときがあった。
シャーロックを救えるのは相棒のジョンでもなくハドソン夫人でもない。救えるのは彼だけなのだ。ジョンは静かに流れていく街並みを見据えた。

*

少年――アリスは心地の良い風に目を覚ました。
いい具合に射し込む春の陽光と入ってくる風に起きたのだろう。ここは確かに患者から人気のある病室と聞いている。
モリー・フーパーはぎこちなく笑顔を浮かべてパイプ椅子にそっと腰を下ろした。
モリーの存在に気づいたアリスはニッコリと笑って体を起こした。

「モリーさん来てくれたんですか」

「え、ええ…あの人が来てるかなって」

つい溢れた本音にアリスはほんの少しだけ目を見張って驚いた様子を見せて次に優しく微笑んでみせた。
モリーは思わずアリスの柔らかな茶色の髪に手を伸ばし撫でた。ああ、彼は変わらない。記憶を失くしても何一つ変わらない。

「シャーロックさんですか…今日きっと来ますよ」

「そ、そう。今日、来るのね。それは良かった」

やはりぎこちなく言葉を返し引き攣った笑みを浮かべるモリー。
しかしアリスは特に気にも留めず穏やかに微笑むだけだった。
とても自分より年下とは思えないほど大人びていて落ち着いていた。

――コンコン

「噂をすればシャーロックさん」

モリーはビクッと肩を上げて振り返った。一輪のオレンジ色の花を持ったシャーロックとジョンがいた。
シャーロックはモリーを一瞥し、ポケットに手を突っ込みながらアリスの寝るベッドへと近づいた。
そして挨拶に頬へキスをする。それを受けながらアリスは嬉しそうにシャーロックを見上げて次にジョンへ視線をやった。

「あ、の私まだ残ってた仕事があるから」

「バイバイ」

「あ、うん…バーイ」

モリーは軽く手を振り、急ぎ足で病室を後にした。
それをジョンが見届けて椅子に座った。

「やあ、アリス。元気だったか」

「あ、はい。ジョンさん」

「僕のこと噂してたのか」

シャーロックは薄く笑みを浮かべてそう問うた。

「ええ。モリーさんがシャーロックさんのこと」

「アリスそれ以上はモリーが可哀想だよ」

「ああ…そうですよね。でもシャーロックさんは気づいているから平気かなって」

「ジョン、なぜ会話を止めるんだ?罰として花瓶を洗ってその後、売店で飲み物を買ってこい。ブラックは絶対買うなよ」

「あーはいはい。わかったよ」

シャーロックの心中を察したジョンはため息をつきながらノロノロと病室を出て行った。
その手には花瓶が握られている。その花を少しだけ萎れていた。
温かい陽射しが差し込んでくる。風も春らしく心地の良い温かさだった。
欠伸を一つアリスが噛み殺すのを見てシャーロックはくすり、と笑った。
そんなシャーロックに向かってアリスはきょとんとしていたがやがて柔らかく微笑んだ。

「それで?どうしたんですか?」

「どうもしないが」

「嘘だ。貴方は僕と話しがってる。だからジョンを行かせた。違いますか?」

鋭い観察にシャーロックは肩を竦めた。
彼には自分の行動はお見通しなわけだ。元々“記憶を失う前”もアリスは人の心理に鋭く的確に分析し次の行動パターンを予測することを得意としていた。
シャーロックはお手上げだ、とでも言うように両手を挙げてみせた。喉の奥でクツクツと笑う。

「正解。記憶を失ってもアリス、君は君だ」

そう言えばアリスは困ったように眉を下げて笑った。

「ごめんなさい…僕まだ何も思い出せなくて」

「そんな風に謝らないでくれ。いいんだ、記憶のことは」

「シャーロックさんもそんな風に苦しんだ顔をしないで下さい…僕が以前に持っていた記憶は大事なものなんでしょう?
交通事故に遭ってしまったのはシャーロックさんのせいでも運転手のせいでもない。況してや犯人のせいでもない…僕自身が引き起こしたことなのです」

だから、と息継ぎもせずに真剣な眼で続ける。

「ご自分を責めないであげて下さい…」

「僕のことはいいんだ、アリス」

「傷ついてもいいと?嫌です、僕が許しません。僕は貴方が僕のことで苦しむのが嫌なんだ。辛いんです。どうか責任を感じないで」

そっと頬を撫でられシャーロックは落としていた視線を上げた。
哀しそうな双眸と目が合う。ああ…自分らしくない。シャーロックは心の中で自嘲した。
悲劇のヒーロー(ヒロイン)になっていた自分が馬鹿らしく思える。
シャーロックは心の中にようやく安心感が広がるのを感じた。お互いに視線を合わせて微笑み合った。

*

看護師をナンパしていたらとても遅くなってしまった。
夕方の4時。腕時計に視線を落としながらジョンは早足で病室へ向かっていた。

「すまない、シャーロック。遅れ…」

病室へ入った途端、ジョンは口を噤んだ。
そしてやれやれとため息をつき、苦笑を零す。

「気持ちよさそうに昼寝か」

ジョンの双眸は穏やかさに広がり、口元には笑みが浮かんでいた。
彼の視線は一台のオレンジの陽光に照らされたベッドの上で寝そべる二人に注がれている。
仲良く手を繋ぎ、体を寄せ合って安らかな寝息を立てて眠っていた。
二人とも口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。ほんの少しだけ。もう少しだけ二人には寝てもらうとするか。
ジョンはクスリ、とこっそり一人で笑い近くにあった椅子に腰を下ろして待つことにした。



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