愛嬌と、そして純粋な愛と
シャーロックはいつも面白い事件を取り扱う。今日はその中でとても珍しくそして悲しい奇跡を伝えようと思う。
本当にそれは僕にとっても悲しくて寂しいことで、でもとても楽しかったから。
あの事件があってからたまに思い出したようにシャーロックはあの子が好きだったサンダーソニアを花屋で買ってきて部屋に飾ったりする。
**
その子が来たのは雨が降る昼時だった。
シャーロックはいつものようにつまらん、つまらんと嘆いていてその子が来た途端にシャーロックは一瞬目を輝かせたがすぐに表情を消し去った。
シャーロックから大した期待感を感じ取れない。その幼子が持ってきた事件は大したことないのだろう。
「これはジョン。珍しい客がきたぞ」
シャーロックは大して期待していない口調で素っ気なくそう言った。僕はシャーロックがするようにその子を観察してみた。
不安そうな表情を浮かべ、大きくて丸い双眸を探るようにあっちこっちに彷徨わせている。
不安そうな表情を浮かべていてもわかる幼いながら整った顔は可愛らしい。年は4,5歳くらいだろうか。
チェックのワンピースの上に桃色の手編みのカーディガンを羽織り、首から斜めに小さな膨らんだポーチを下げていた。
腕から覗く腕時計にジョンは驚いた。玩具ではなく有名ブランドの時計だったからだ。
お金持ち――?
結局、細部を見てもシャーロックのように分からず僕にはさっぱり素性を読めなかった。
「取り敢えず、席ぐらい勧めろよ」
「おーそうだった。適当に掛けて」
シャーロックが肘掛け椅子に座り、僕も隣に座ってから幼い女の子は「ありがとう」と澄んだソプラノ声で答えて示された椅子に腰掛けた。
短い足をブランと揺らすことなくその子はきちんと座っていた。
「えーと…お嬢さん、君は何をしにここへ来たんだ?おうちの人は?」
シャーロックが何も言おうとしないので僕がそう聞くと女の子はチラッと観察するシャーロックを一瞥して僕へ視線を戻すと小さな唇を開いた。
「ママもパパも殺されたからいない」
僕はギョッとした。突然、そんなことを言い出したから。
不吉なワードにシャーロックは反応するかと思えば顔色一つ変えずに女の子をジッと見つめているだけだった。
シャーロックは指を組みながら口を開いた。
「…ああ、知ってるよ。君はマーガレット夫妻の娘だな?」
マーガレット夫妻?そんな名前など聞いたことがなかった。
しかしすぐにシャーロックは答えを教えてくれた。
「あの夫妻が相談してきた事件は解決したからよく覚えてるよ。それにその夫妻は3日前に殺されている」
僕は一昨日の朝刊を引っ張り出して広げてみた。
本当だ。シャーロックの言った通りにマーガレット夫妻の殺人事件について詳細が載っていた。
「マイクロフトおじさんがここへ連れてきてくれたの。パパもママも困ったらホームズ兄弟に頼りなさいって言ってたから」
この子はマイクロフトと面識があるらしい。僕は混乱した。話を理解していないのは僕だけである。
それにマイクロフトと知り合いであるこの子は一体――?
シャーロックに聞こうか聞かないか迷っていると階段を上がってくる音が聞こえてきた。
重々しく階段を上がってきて濡れた傘を片手に入ってきたのはマイクロフトだった。
「アリス、これからこの二人が君のママとパパだ」
「「は?」」
僕とシャーロックは同時に声を上げた。シャーロックに至っては腰を上げている。
そして少女の名前はどうやらアリスらしい。
マイクロフトを静かに睨みつけてシャーロックは口を開いた。
「…冗談じゃない。僕は“保母さん”じゃない…!僕が引き受けるのは事件だ。じ・け・ん!」
「この子は狙われているんだよ」
マイクロフトはアリスの肩に手を添えた。
アリスはニッコリと愛嬌のある笑みを浮かべてシャーロックを見上げた。
その笑みを見て僕は確信した。先ほどの困惑した不安そうな顔は演技だったのだと。可愛らしい笑みに心を揺さぶられた。
「ほらアリスもお前のことを気に入ったようだ」
マイクロフトはこれ以上にないくらい機嫌が良さそうな笑みをニッコリと浮かべた。
「狙われているなら護衛をつければいいだろ」
「この子も死んだことになる。身を置く場所はここが丁度いい。今から名を改めてアリス・ホームズだ」
「嫌だ、断る」
腕を組んだシャーロックにマイクロフトは呆れたように首を横に振った。
「強情な弟を持ったものだ。ワトソンの方が良かったか?」
「それなら良い」
「え、シャーロック?」
僕が困っている間にマイクロフトは笑みを浮かべてコックリと頷いた。
「交渉成立だ。それじゃあ、アリス元気で」
「うん、マイクロフトおじさんも」
アリスはニッコリと笑って小さな紅葉の葉のような手を振った。
*
それから僕とシャーロックの生活にアリスが加わるようになった。
小さい子だと始めは僕もシャーロックも身構えていたがワガママを言わずとても利口で良い子だった。
孫を持たないハドソン夫人も喜ぶくらい素直で可愛らしい子。
何より愛らしい笑みで人を惹きつける魅力を備え、癒しとなっていた。
飽きもせずにシャーロックの話にも耳を静かに傾け、大人顔向けのアリスはシャーロックまでも惹きつけた。
アリスもシャーロックが1番大好きなようでよく街中を歩くときは彼と手を繋いで歩いた。
「ねえねえ、このお花なに?」
繋いでいたシャーロックの手を離し、アリスは花屋に駆け寄って不思議そうにそれを差した。
彼女が興味を持ったのはオレンジ色と黄色の可愛らしい花だった。
色とりどりの薔薇やヒマワリ、カーネーション、百合などに目をくれず不思議そうにそれを見つめている。
シャーロックはアリスと同じく屈んで目線を合わせた。
「サンダーソニア。ユリ科で球根植物。風鈴の形状から“クリスマスベル”とも言われるし“チャイニーズ・ランタン・リリー”とも呼ばれる。花期は6月から8月。
南アフリカのナタール地方で1851年に発見され、発見者のサンダーソンに因んで名づけ…」
「シャーロック」
僕は咳払いをしながら制すように彼の名を呼んだ。
店員さんの異様な視線と花に夢中になるアリスを見てシャーロックはようやく口を閉ざす。
「サンダーソニア…ユリ科…」
ぽつり、とシャーロックに教えてもらった情報を早速アリスは覚えて呟いていた。
「良い子だ」
シャーロックはアリスの頭を撫でた。
嬉しそうにニッコリと頬にえくぼを浮かべてアリスは愛らしい笑顔になる。
シャーロックも自分の与えた知識を喜んで聞き覚えてくれて嬉しそうだった。
「アリスに似合うピッタリな花だね」
僕は素直に感想を言った。
明るいオレンジと黄色はアリスの元気、無邪気さを語っているようでとっても似合っていた。見た目も可愛らしく本当にピッタリだ。
「良いところに気づいたな、ジョン。サンダーソニアの花言葉を知っているか?」
アリスと僕は分からず素直に首を振った。
「“愛嬌”だよ」
*
捜査に加わることは流石になかったがアリスは家にいる間ずっとシャーロックの傍にいた。彼の膝の上に座り黙って本を読む。
始めこそシャーロックは膝の上に乗るアリスを困惑顔で見つめたが黙って絵本を読んだりするだけなので何も言わずに膝に乗せたまま考え事をしたりするようになった。
僕は二人の仲良しさに親子以上の絆を感じた。
「シャーロック」
「どうした?」
「学校のしゅくだい、おしえて」
シャーロックは椅子に座ったまま教材を持ったアリスを抱き上げて自分の膝に乗せた。
アリスはテーブルに学校から出されたらしい宿題を広げた。分からないのは理科の問題らしい。
成る程。シャーロックは得意だろう。ただし天体の問題は抜きとして。
「ここは…」
シャーロックの説明を聞き流しながら僕はパソコンに没頭した。
数分してからアリスの出来たという声を聞き僕は眠りにつきそうだった意識を覚ました。
「終わったか?」
「ああ、終わった。やはりアリスは理数系が得意のようだよ」
「へえ、それはよかったな。ところでアリスは大きくなったら何になりたいんだ?」
「えーとね…えーとね、シャーロックみたいな探偵さん!それでシャーロックの“じょしゅ”をやるの!」
「おー、ジョン危ないぞ。君の立場が脅かされるぞ、これから」
「え?わたしが入ったらジョンやめちゃうの?」
悲しそうな目でこちらを見てきて僕は慌てて首を横に振った。
シャーロックは愉しげにその光景を見ながらたっぷりと砂糖の入ったコーヒーを啜った。
膝の上に乗るアリスのお腹に手を回し抱き寄せながらその顔がとても喜びに緩んでいるのは僕しか知らないだろう。
どんなにシャーロックの目が視線が慈愛に満ちているかは僕しか。
*
しかしそんな生活も終わりが近づいていた。アリスの里親が見つかったのだという。
ここよりとても安全で心地のいい場所が。マイクロフトが迎えに来るらしい。その別れの日も雨だった。
マイクロフトが来るまでの間、部屋は重苦しさに包まれていた。僕を含めた3人は黙りこくってそれぞれの離れた椅子に腰掛けていた。
カチッカチッという時計の針の音、雨の音しかしない。シャーロックは無表情のまま、膝を抱えて目を閉じていた。
アリスは地面から離れた足をブランブランとさせて宙を見据えている。
誰一人口を開こうとしない。僕は正直、とても寂しかった。シャーロックも同じはずなのに、悲しそうな表情は見せない。
目を閉じたまま、座っているだけだった。
やがて通りから車が停まる音が聞こえ、入口をノックする後の音に続き、階段を上がってくる音が聞こえてきた。
来た、ついにマイクロフトが迎えに来たのである。シャーロックは扉が開くのと同時に目を開けた。
「遅かったな、マイクロフト」
「そうだったか?お別れの時間をあげたつもりでいたが」
シャーロックは鼻を鳴らした。
「そんなの必要ない」
嘘だ。僕は彼の嘘を見抜いた。
彼――シャーロックがどんなにアリスを可愛がり愛していたか知っていたからだ。アリスは初めて大人っぽい笑みを浮かべた。
とても寂しそうで切なそうな苦しくてそれでも頑張って微笑もうと努力をしたような笑み。
あんな顔をさせるなんて。僕は唇を噛み締めて朗らかに微笑むことしかできなかった。
「元気で過ごすんだよ?」
僕は向こうがどんな場所か知らない。シャーロックも僕も住所を知らされていなかった。
秘匿義務というやつらしい。
住所くらい教えてもいいのに。そしたら手紙で繋がることができるのに。
「うん、ばいばい…ジョン」
「行くぞ、アリス」
マイクロフトは先に出て行った。
アリスはチラッとシャーロックへ視線をやったが彼は膝を抱えたまま宙を見据えていた。
浮かんだ寂しそうな色。そのまま扉へ歩いていく。
そして扉を出てアリスはこれ以上にないくらい可愛らしい元気な愛嬌のある笑みを浮かべて言った。
「さようなら…シャーロック」
やわらかそうな頬を透明な雫が伝う。泣いているのだと理解した途端、扉はゆっくりと音を立てて閉まった。
僕はシャーロックの方へ視線をやった。彼は扉の方へ視線をやっていて、微笑んでいた。
そのまま立っている僕へと視線を上げる。
「なあジョン」
僕は黙って彼の言葉の続きを待った。
「アリスに初めてあんな笑顔を浮かべさせたことに対して僕は不思議なことに嬉しさを感じたんだ」
「嬉しさ?」
「アリスは愛嬌のある笑顔ばかり浮かべてた。それがさっきはあんなに大人っぽい憂いを帯びた顔になった。その笑みを浮かべさせたのは誰か?もちろん僕だ」
何だ、シャーロックだって寂しかったのではないか。別れを哀しく思っているのだ。
シャーロックは「さようなら」と呟いた。
以上がベーカー街で起こった悲しくて不思議なシャーロックと少女が築いた絆の話しである。
**
真夏の陽射しがジリジリと肌に焼け付く。
幼い少女は麦わら帽子を深く被り直しながら目を細めて息をついた。
そして宅急便がきたのに気づき、顔を輝かせてトラックの方へと駆けていった。ここの田舎生活にも慣れてきたところだ。
少女は宅急便や郵便屋さんが来る度にはしゃいでいた。
ここの村ではあまり宅急便が来ない。故に誰から来たか気になるのだ。
或いは胸の内にある期待を秘めているか。少女は頭を振ってその小さな期待を頭から消し去った。
来るはずなどない。『彼ら』は自分の住所を知らないのだから。
少し哀しく思いながら少女は元気よく宅急便のおじさんの運んできた箱を受け取った。
お礼をいいながらその箱を家へと運ぶ。
そこには自分の名前が書いてあった。しかし送り主の名前は表記されていない。
「え?」
少女は戸惑いの声を上げた。
自分の名前が書かれた郵便物は一つも今まで来なかったからだ。
訝しげに思いながら自分の部屋まで持ち込みその箱を丁寧に開ける。その中身を見て首を傾げた。
小さな植木鉢と球根。取り扱い説明書。それには“サンダーソニア”と書かれていた。
「サンダーソニア…」
はっと顔を上げる。
まさか――?少女は淡い期待が胸に膨らむのを感じながら箱に何かないか探した。しかし手紙などメモも何一つ入っていなかった。
あるのは植木鉢と球根、取り扱い説明書だけ。がっかりと少女は項垂れた。
それでもこの贈り物をしてきた主は分かる。絶対にあの人だ…。少女は確信していた。
そして説明書を広げてそれを読む。
どこにでもあるような説明書だ。サッと読みながらペンで書き加えられた文字に首を傾げた。
“サンダーソニアの花言葉:純粋な愛”
と書かれている。
その下にはイニシャルが書かれている。S.Hと。
少女はそれを呼んで笑みを浮かべた。
「シャーロック…」
「アリスちゃーん!ご飯よ〜」
少女――アリスは顔を上げて元気よく返事をしながら自分の部屋を後にした。