かき乱される自分が愚かで
パトカーのサイレンが目に刺激をもたらす。
すっかり見慣れた光景にアリスはため息をつきながら手錠をかけられ警察官に連れて行かれる犯人の背中を眺める。
その背中は希望を失ったようで、でもどこか全てを終わらせて安心し切ったような背中でもあった。今回の殺人の動機は復讐だった。
それでもこうして何度も警察官に連れて行かれる犯人の背中は酷く寂しくいたたまれなくなる。
こうして犯人の背中を見送るのは何度目か。他でもないシャーロックとジョンの影響だ。
自分の事件が終わった後も彼らと関わっているが何度警察関係者に“忠告”されたことか。
しかしそんなの関係ない。アリスは好きで彼らといるのだ。
振り返るとシャーロックとジョンがいつものようにレストレード警部と話していた。背を向けるシャーロックはこちらには気づかない。
ジョンはすぐにアリスの視線に気づき、片手を挙げて朗らかに笑ってみせた。
すぐにシャーロックが振り返る。彼らの元へ近づきながらアリスは首を傾けた。感じるとても小さな違和感。レストレードは仕事があるらしく傍を離れた。
「ああ、アリス」
アリスの姿を見つけてシャーロックはニッコリと笑った。
でもいつものような笑みじゃない。もっと…こう…何だか今日の笑い方は力が抜けている。
いつもなら解決した後しばらくは興奮しているはずなのにそれが見られない。退屈な事件だったのだろうか?
「急に呼んで、すまなかった…仕事中じゃなかった?」
ジョンはすかさずそう言った。
彼は気付いていないのだろうか――?シャーロックの違和感に。
自分の気のせいかと思い直してから首を横に振り微笑む。
「別にへい――」
「――違う、ジョン」
平気、と返そうとしたがシャーロックが不意にそう遮った。眉をひそめ、何が?と聞くジョン。
彼もシャーロックの違和感に気づいたらしい。怪訝に目を細め、眉間に皺を寄せたままシャーロックを見上げている。
えーと、戸惑うようにジョンは口を開いた。
「何が?」
「呼んだのは君じゃない。僕だ。僕がアリスを呼んだ。彼女は僕のだ」
さすがにその発言は驚きだ。アリスとジョンは互いに顔を見合わせた。
一体、彼に何があったのだろうか。
「シャーロック?熱があるんじゃないの?」
ふざけてそう言ってアリスは冗談のつもりでシャーロックの額に触れた。そして真剣な顔に戻す。
「熱い…やっぱり熱が」
「気のせいだろう…君の手が冷たいんだ」
「なら僕が確かめようか?」
「結構だ。ジョン、誤解を避けるために僕には触れない方が良いんじゃないか?せっかくできたガールフレンドがゲイなんじゃないかと幻滅するぞ」
アリスと同様にシャーロックの額に触れようと手を伸ばしたジョンの手を避けて
ピシャリとシャーロックは冷たくそう言い放った。
一体どうしたんだ、とジョンは訳がわからなそうに眉根をひそめる。それでも相変わらずの毒舌と皮肉の威力はいつも通り。
「シャーロック」
少し声音を強めたアリスにシャーロックは「何だ?」と返した。
何とも大胆にアリスはグイっとシャーロックのコートの襟元を引き寄せて額同士を強引に合わせた。
顔を寄せ合う二人はまるでキスを交わしているようでジョンは視線を揺らす。額の温度で体温を測ろうとしているらしい。
おーい、おふたりさーんここ道路の真ん中でーす。と、そんな風に視線で訴えてみたが効果なし。
「やっぱりあるじゃない」
額を合わせたまま怒ったようにアリスは言った。
「こんなの何でもない」
やはり額を合わせたまま、そしてアリスに襟元を引っ張られたままシャーロックはそう答えた。
見ているこっちが恥ずかしくなる。何というかテレビドラマのワンシーンのような…。
そしていい加減レストレードが写メを撮っていることに気づいたらどうだ、と
言おうとしたが口を噤んだ。たまには公衆面前でイチャつかせるのも悪くない。
その方が健全だ。最も、シャーロックの場合はそんなの通用しないが。
しかしベーカー街に帰ってきてからやはりシャーロックの体温は上昇した。
無理やり、寝かせようとしたがシャーロックは拒み仕方なく電話でアリスを呼び戻して寝かせることに成功した。
「何度だったの?」
腕を組んだまま小声でアリスは聞いた。
美しい顔を歪ませ、唇を噛むアリスは心配そうだった。
そういえばアリスにも何か危険が及んだときにもシャーロックもそんな風にしていた気がする。
恋愛に関して冷めている二人(特にシャーロック)だがちゃんとした“恋人関係”ではないか。
あまり雰囲気を重視しないシャーロックだが二人を見ているとわかる。
希にジョンがいようがいまいがお構いなしに二人はテーブルの下で手を繋いで休日を過ごす。
意識してるのか、してないのかジョンにはわからないが。
「40.3°」
「高いわね。無理をしちゃって」
さらに整った顔を歪ませるアリスの肩に手を添えて椅子に座らせればすかさず奥から聞こえてきた声。
「アリスに触るな」
アリスはクスクス悪戯っぽく笑いながらしーと人差し指を唇につけた。
そんな些細な仕草でもドキリとした。出逢った頃から思っていたが彼女は本当に綺麗だ。
一時期、落としたかったときもあったが友人としての席の方が落ち着く。それでも変わらずアリスは美しいと思った。
ジョンは肩を竦めながらテーブルの上のビスケットを一口食べた。そして彼女が用意してくれたお得意の紅茶を啜る。
「美味しいね」
「ありがとう」
「そろそろ薬を飲んでもらわなきゃ」
ジョンはそう言いながら立ち上がって包みに入ったカプセルを示した。
「まだ飲んでないの?」
呆れたようにアリスは天井を仰ぎながら言った。と同時に意外そうだった。それもそうだろう。
科学の推理とかやっておきながら薬をさっさと飲んでしまわないなんて十分に意外性がある。
ジョンとしてはシャーロックが風邪を引いたことに関してすら驚いているというのに。
薬を手にジョンはシャーロックの部屋へ入った。アリスも後に続く。
「シャーロック、薬」
「嫌だ」
「子どもか」
呆れたようにコップいっぱいの水と薬を用意したジョンはそう返した。
「それとも何?ベタな展開を期待してるのかしら?私が口移しで飲ませるとか」
ニンマリと笑うアリスにシャーロックは固まり、数秒後二ヤッと口元を吊り上げてみせた。
熱があるからか、いつものように意地悪さには欠けるが。
「何だ?君こそ期待してるのか?」
「あら?私は別に?キスなら治ってからできるわ。弱っている人ほど人肌を求めるものよ」
僕、ここにいますけど。
ジョンはベッドの脇の椅子に座ったまま、刺激的な会話に耳を傾けているしかなかった。
シャーロックはふっと笑うと自身の唇にカプセルを押し込んだ。あ、いつの間にカプセルの包みを破ったんだ。
呑気にそんなことを考えているとシャーロックはアリスの腕を引っ張ってコップを押しつけた。
「え、ちょ、アリス?」
戸惑うのかと思えばアリスは妖しく微笑み、コップの水を口内に含んで彼女からシャーロックに口付けた。
衝撃的。ジョンは黙って見るしかなかった。
何だ、この18禁的絵図は。シーツのみ被った裸体のシャーロックに接吻するアリス。
でもそこまで情熱的なキスは交わさなかった。
軽くチュッとシャーロックは口付けて彼女からコップを受け取って“普通”に薬を飲んだ。
そして黙りこくるジョンへチラリと視線をやりシャーロックは鼻で笑った。
「何だ、ジョン?期待したか?残念だったな。そんなベタで愚かなことはしないよ。薬を口移しだなんて」
クスクス笑うアリスを見てジョンは額に手をやった。
遊ばれたようだ。それでも二人はきっと気づいていない。互いに作った雰囲気を。
そして同時に思った。打ち合わせもなしに自分を欺く二人は息がピッタリなのだと。