蜀國公主 一

劉玄徳。君主である彼の娘の子守を頼まれたのは初めてだった。
姫君のお噂は予々伺っているものの趙雲は会ったことがなかった。
そもそも姫君の世話役はきちんと控えているはずだがなぜ戦うことしか知らない兵士に子守を任せるのだろう。
疑問に思ったもののそれを口にすることなく趙雲は主君の言葉に従う。名指ししたのは軍師である諸葛亮らしいが何か問題ごとでもあったのだろうか。
それが顔に出ていたらしい。諸葛亮は羽扇で扇ぎながら笑った。

「おやおや子龍。不安ですか?」

「いえ、ただ何か問題でもあったのかと思いまして」

言葉を濁しながら何気なくそう聞けば諸葛亮は主君である劉備を見遣った。
視線を受けた劉備は溜息をつき、米神の辺りを押さえながら言った。

「我が娘陽葵が女らしいことをしないのだ」

「というと?」

怪訝に眉を顰めそう聞けば憂鬱そうな顔をした主君が問題の内容を言う。

「剣を振り回し、弓を引き、狩りに出かけ、乗馬さえも好む」

ここまでは噂に聞いていたことだ。
関羽は関心していたし張飛に至っては剣を交わしてみたいとさえ言っていた。
劉備は非常に言いづらそうに口を閉ざした。趣味を強制させるのは君主の命令でも趙雲には不可能だ。
では一体何の目的で君主は趙雲にこのようなことを命じたのか。困る主君に代わって諸葛亮へ視線を向ければ彼は苦く笑いながら代わりに答えてくれた。

「つまり貰い手がないのです」

「この間の縁談のお話はどうなったのです?」

縁談を行ったと聞いたがそれはどうなったのだろうか。

「娘が断った、あの子は自分より弱い男を好まないのだ。何より男というものを見下してさえいる」

劉備は溜息と共にそう言い放った。
苦労するわけだ。

「…それで私は如何にすれば?」

「ただ陽葵様の御側にいるだけで結構です」

趙雲は驚いた。諸葛亮のことだから何か策があるかと思ったが。
いや何か策があるに違いない。
策がある故にきっと趙雲を選んだのだ、きっと。

「御意」

趙雲は両手を合わせ、そう言った。

*

「困ったことになった…陽葵様がいらっしゃいませんね」

諸葛亮は溜息を吐いた。かの有名な諸葛亮孔明を困らせている女は珍しい。

「思い当たるような場所はないのですか?」

「尽く外れるので私の思考では役に立たないでしょう。気まぐれなお方です」

主君と軍師を困らせている姫君はまだ確か20にも満たない年だったはずだ。
同情し声を掛けようとしたところで凛とした声が廊下に響いた。

「わたくしが何か?」

ハッキリとした堂々とした声に振り返る。
静かに目を見張った。愛らしい女性がそこに立っていた。想像とは全く違う容姿に趙雲は圧倒される。
貰い手がないからてっきり容姿はそこそこなのではないかと踏んでいたのだがどうやら見解が外れていたようだ。

「いいえ、誰も姫様のことなど言っておりませんよ」

恭しくお辞儀する諸葛亮に倣って趙雲は急いで静かに顔を伏せてお辞儀をした。

「そうですか、なら良いのですが。そちらは?」

陽葵の視線が趙雲を捉える。目が合い慌てて趙雲は顔を伏せた。
トンと扇で顎を掬い上げられ、目を丸くして陽葵を見つめる。
じーと観察するように見つめられ落ち着かない気分になった。小首を傾げて趙雲を観察し続ける陽葵に諸葛亮は「気に入られましたか」と問うた。

「馬鹿言わないでください。男に興味などありません。それで名は?」

「姫君、お初にお目にかかります。趙雲でございます」

「趙雲?趙雲ってあの趙子龍殿?」

扇を趙雲の顎にやったまま陽葵は興奮したように声を弾ませ諸葛亮に聞いた。
どうやら彼女は自分の名を存じ上げていたらしい。

「ええ、“あの”趙雲でございますよ」

クスリと笑って諸葛亮は答える。“あの”を強調させた軍師殿は一体、自分のことを何と彼女に吹き込んだのだろう。
不安に思い視線を上げれば彼女はニコニコと自分を見つめている。
良からぬことではなさそうだ。

「趙雲殿でありましたか、一度お会いしたかったのです!」

ガバっと抱きつかれ、趙雲は思わず体を固くさせた。
何だ、この積極的な姫は…!まだ妻を持たない趙雲は戦場外で初めて女に触れた。
正しく言うと女性の方が触れてきたのだが。
視線を泳がせ、諸葛亮へ助けを乞うように視線を送った。軍師はニヤリと笑ったかと思うと咳払い一つしてみせた。

「陽葵様、子龍から離れるのです」

「あ、ごめんなさい」

とは言ったものの陽葵は全く恥じらう様子はない。
予想以上に男前なお方にこちらがやられてしまいそうだ。これは尊敬する主君と軍師が苦戦するわけだ。

「父上がここを離れる間、趙雲殿が私の相手をしてくださるのですね」

「ええ、くれぐれも大人しくしているのですよ」

「わかってます、狩りはしばらく我慢します」

まるで男同士の会話だった。
微笑を浮かべこちらを見遣る陽葵に趙雲はぎこちなく微笑を返すのだった。




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