変人<[言葉の壁]>留学生
緊張した面持ちで陽葵はハドソン夫人を見遣った。
ハドソン夫人はニコニコと優しい笑みを浮かべて言った。
「大丈夫よ、そんな心配しなくても」
アメリカ英語しかわからない陽葵はハドソン夫人の英語を拾うのに一生懸命だった。
憧れだったイギリスに留学してきたはいいもののまだこちらへ来て数日しか経っていない。
買い物へ出かけたり、タクシーの運転手へ行く場所を伝えたり、店で料理を注文するだけでもいっぱいいっぱいだった。
ハドソン夫人はそんな陽葵を迎え入れてくれた優しい人だ。
ロンドンは物価だって家賃だって高いのに快く迎えてくれた恩人。
「シャーロックは多少変人だけど本当に気にしなくてもいいと思うわ」
と機嫌よく彼女は言う。“多少変人”そんな言葉はさらに緊張感を煽る言葉でしかない。
でもハドソン夫人の機嫌が良さそうな笑顔を見ていると悪気がないことがわかる。
彼女なりの緊張の解し方なのかもしれない。
「シャーロック!ジョン!」
ドアを無遠慮に叩きドアノブを捻る夫人にギョッとすると夫人は「いいのよ安心して話は通っているわ」と陽葵に向かってそう言った。
遠慮する陽葵の腕を引き、部屋へと一歩入った。部屋は一言で言うと片付いていなかた。
テーブルにはよくわからないメモでごった返していたし本だって何冊も重ねられていて。
そんな光景に唖然としているとチラッと暗い髪色の巻き毛の男がこちらを一瞥してきた。
見透かされているような目に見つめられ何となく落ち着かなくなる。
「先日話してた陽葵よ。まだイギリスに慣れてないからあまり馬鹿にしてあげないで頂戴ね」
馬鹿にする?陽葵は身構えた。
馬鹿にするような人たちなのか。
「どこの国から来たんだ?」
親しみやすい男に聞かれ、陽葵は慌てて「Japanです」と答えた。
「ジョンだ。よろしく、陽葵」
「あ…よろしくお願いします」
握手を求められ、それに応じながら笑顔を返す。
「ブレンドコーヒー」
長身の男が椅子に座ったまま言った。
「…え?」
「シャーロック」
彼を制するようにジョンは呆れ顔で彼を呼んだ。
成る程、彼はシャーロックという名らしい。
「君は朝、ブレンドコーヒーを飲んだ。しかし本当に飲みたかったのはエスプレッソ」
困惑し、思わずハドソン夫人へ視線を遣ったがそこにいたはずの夫人がいない。
助けを求めるようにジョンへ視線を遣ったが小さく「すまない」と言われただけだった。
確かに彼の言う通り、エスプレッソを飲みたかったのだが発音が悪いのか通じず仕方なくブレンドコーヒーを飲んだ。
シャーロックは跳ねるようにして立ち上がると陽葵にじりじりと近づいた。
「男物の香水の匂いがするな」
ち、近い。距離の近さに思わず息を止めた。
シャーロックの顔が近くで歪められる。
「推定20中盤の男。その男に君はつい先ほど絡まれた。君は駅からここまで歩いてきた。地図を回して裏地へ誤って入り込んで絡まれた。
あまり顔立ちが目立たないから金目当て。君は香水の匂いの気持ち悪さにすぐにトイレへ入り石鹸で匂いを消そうと手をかなり洗った」
だから今は石鹸の匂いが強い、と付け足し早口で捲し立てていくシャーロックという男。
早口過ぎて陽葵はよく聞き取れず、さらにイギリス独特の文法が混じり何を言われているのかさっぱりだった。
何かが込み上げてくる。不安が爆発しそうだった。イギリス英語がこんなにも難しいだなんて。
カッと目頭が熱くなり、堪えきれず涙を零す。
「シャーロック、君この子を怖がらせた」
ジョンは励ますように陽葵の背中を摩りながらシャーロックから守るように軽く抱き締めた。
「僕が?この子を?馬鹿らしい」
「す、すみません。わた、しもっと勉強します…!」
「え?」
訳がわからないといった様子のジョンを突き放し、ゴシゴシと目元を拭う。
シャーロックは読めない表情で陽葵を眺めていた。
「シャーロックさんが言いたいこと全部訳わかりませんでした!理解できるように頑張ります、勉強します!いつかわかるようになるまで勉強しま、す!失礼しました!」
伝わったかどうかわからないけれど陽葵は早口でそう言うと部屋を後にした。
イギリス英語を早くマスターできるようにしないと。
そう意気込んで陽葵は自室のデスクへ向かった。
*
「すごいな…君のことを理解しようとする人間なんていないと思ってたけど」
「…初めてされる反応だ」
シャーロックは呟くようにそう言った。
ジョンは椅子に腰かけながら扉を見つめて立ち尽くしたままのシャーロックを見遣った。
確かに彼の明確な推理に反応は純粋に驚かれるか、気味悪がられるかのいずれかである。
あのような反応はジョンも初めて見た。
あの留学生が来たことでもしかしたらまた日常はガラリと変わるかもしれない。
ジョンは既にブログに書く内容を頭の中で纏め始めていた。