犬を拾いました
男にフラれた。それは雨の日だった。
陽葵は一人暗い夜道を千鳥足で歩いていた。心なしかヒールの踵が折れそうだ。
カッ…、カッカッ…!
一定のリズムではなく乱れたどこか虚しいリズム。ビニール傘から滴り落ちる水滴がシャツに染み込んだ。
「冷たっ…!」
でも熱っぽい火照った肌には心地よかった。
半ばヤケクソでいるのかも。陽葵は傘を黒く濡れたアスファルトへゆっくりと落とした。
パシャン、アスファルトに点々と続く小さな池の水が撥ね飛んだ。
冷たい水が肌と髪を濡らしお酒で無理やり熱くした体が冷えていく。スッと脳にも染み渡っていくようだった。
纏まらない思考が纏まり、虚しかった心もなぜか晴れていく。
「思えばタイプじゃなかったのかも」
ボソリと呟けば心の底から笑いが込み上げてきた。気分はとっても愉快。
本気になる男なんて周りにいなかった。寂しさに負けて無理やり好きになっただけなのかもしれない。
そう思うとスッキリした。フラレて自分の惨めさを隠すための考えであることにどことなく気づいていたが知らんふり。
そうして次へ進まないといけない。
「あーあ…」濡れた毛先のひと房を指で掴み、笑った。
今日は念入りに手入れをしないと。でないと傷んで悲惨なことになる。
「濡れますよ、お嬢さん」
男の声が近くで聞こえ、ふと頭上から落ちてきていた雫が垂れてこなくなった。
目の前には男のしっかりとした胸板。陽葵は濡れた前髪を掻き上げてそろそろと視線を上げて見上げた。
(子犬…みたい)
前髪が垂れ下がり青年は酷く惨めな姿だった。
Tシャツもパンツもびしょ濡れ。スニーカーもぐしょぐしょだろう。
「ありが、とう…」
差し出された傘を受け取ろうとしたがひょいと何故かかわされてしまう。
手を伸ばしたまま固まっていると青年はそのまま口を開いた。
「送っていきますよ」
何、ナンパ?陽葵は顔をムッと顰めて「いえ、結構よ」と返した。
すると青年は慌てたように「あー」と何かやらかしたような顔をし、言葉を探すように視線を揺らした。
「自分はそんなつもりなどなくて…ただ俺…俺をっ」
次の言葉が言えないらしく青年は口ごもる。
その様子が何だか可愛らしくて可笑しくて陽葵はしばらく見守ってみることにした。
小首を傾げて「俺を?」と彼を催促するように問うた。
「俺を拾ってくれませんか」
「は?」
内心笑いそうになったが陽葵はそれを堪えて驚きを先に表現することにした。
ああ、でも無理そう。次の瞬間には吹き出し笑ってしまっていた。
抑えようとすればする程可笑しくて堪らなくなる。口許を押え、陽葵は腰を曲げて遂には笑っていた。
薄めで彼を見遣れば青年は困ったように眉根を下げて戸惑っている。
「うん、いいわよ」
一通り笑った後にそう言えば青年は驚いたように目を丸くさせている。
当然だ。どこに見知らぬ男に拾ってと言われて素直に拾う女がいるというのだろう。
それでも陽葵は彼が彼だから拾うことに決めたのだ。元々この世に道理などないも等しい。少なくとも今の陽葵には。
「ほら。行くわよ、“ワンちゃん”」
「ワンちゃんって…」
「あら、名前がほしいの?」
「俺にはもう名前があります」
「ふーん」
「ふーんって普通聞きません?」
「貴方だって飼い主であるあたしの名前を聞かなかったじゃないの。それと一緒」
楽しげに響く二つの声。ヒールの音はリズミカルにアスファルトの通りに響き渡った。
「それで?貴方の名前は?」
仕方ない聞いてやろうじゃないか。
青年は歩きながら姿勢を正し、息を吸い込んだ。
どこかの軍人かって。陽葵は短く笑って隣りに傘を差して控える青年を見遣った。
「俺の名前はピアーズです」