恋する死神

「また負けた」

シャーロックは不機嫌そうにそう言った。
彼の前にはチェス盤と駒があった。
対戦相手はもちろん、アリスで彼女は誰もが振り向くであろう美しい極上の笑みを浮かべていた。
盤上の黒のキングは白の駒に見事にチェックメイトをかけられている。

「なぜ負けるんだ。すべての盤面を把握しているはずなのに」

「把握してても使いこなせてなければ負けるわ」

「見事だな」

レストレードは拍手しながら言った。

「ありがとう」

「アリスはいつもシャーロックを負かすわね」

「ハドソンさん、アリスが強いだけです」

不機嫌そうに返すシャーロックを見てアリスはくすりと笑った。
ジョンもつられるように口元を手で押さえて笑った。

「さあ、シャーロック。チェスはおしまいよ。約束通りゲームを終えたからレストレードさんの依頼を聞いてあげて。お待たせするのは悪いでしょう?」

アリスはそう言って腕時計に視線を落とした。
レストレードは申し訳なさそうに眉根を下げて軽く会釈をしてきた。

「君も事件に同行するだろ?」

出かける支度をしながらシャーロックはそう聞いてきた。

「今回はいいわ。この後、帰ってレポートを作成しなければいけないから」

「そうか」

支度を終えたシャーロックは残念そうにアリスに近づいた。
ジョンはレストレードが落ち着かない様子なのに気づき、笑った。
レストレードとしてはシャーロックに早く現場へ急行してほしいのだ。
それともこの二人のイチャつきを見て決まりが悪いのか。
アリスとシャーロックが顔を寄せ合って軽い口付けを交わしたのを確認してレストレードは咳払いをした。

「シャーロック、時間が」

落ち着き無く腕時計をチラ見してレストレードは催促するように言った。

「ああ、分かっているよ。…行ってくる」

「ええ、事件のこと聞かせてね」

「ああ、もちろん」

「ジョンも気を付けて」

「ああ、君こそ…そのレポート頑張って」

「ありがとう」

アリスは先にベーカー街を出て自宅へ向かった。段々と暖かくなってきた。
欠伸を噛み殺し、息をつく。さあ、もうひと頑張り。
髪を耳にかけながらアリスは先へ急いだ。

*

アリスは鍵穴に鍵を差し込み手応えに眉をひそめた。
きちんと鍵をかけて出てきたはずだが。泥棒?いやそれはない。前回の家と同様にピッキングは不可能のにしておいた。
セキュリティを潜れる人間だってほとんど皆無のはずだ。
プロの泥棒はわからないが。しかしプロの泥棒は自分の家など狙わないはずだ。
アリスは、家に忍び込んだ人物を頭の中で特定し、溜め息をついた。
鍵をポケットに滑り込ませて陽葵は警戒する姿勢を見せることなくそのまま家へ上がった。

「紅茶でいいかしら?」

ソファーでくつろぐ男の背に向かってアリスはそう言った。
振り返った男は優しくて怪しい笑みを作り、「ああ、ミルクティーで頼むよ」と朗らかに言った。
お湯を沸かす準備とティーセットを取り出している間に背後に気配を感じアリスはすぐに振り返った。

「背後に立つ意味分かっているの?」

「僕は襲ったりしない」

「…それはわかっているわ」

距離の近さに驚きながらアリスはピシャリとそう言い放った。
モリアーティは面白い獲物を見るようにマジマジとアリスを見下ろした。
一体、彼は何の目的でやってきたのか。真意を読み取ろうと見つめ返すと彼はニコリと笑った。

「わかってる?僕が君を襲わない保証書があるのか?」

「何を企んでいるのか知らないけれど“計画《プラン》”が台無しでしょう?」

「“計画”?ああ、そうだね。そうだったね。そうだ。シャーロック・ホームズの大切な大切な“玩具”の君には無事でいてもらわないと」

頬を撫でられ、アリスはそれを振り払った。
残念そうにモリアーティは肩を竦め、コンロの火を消した。いつの間にお湯が沸いていたようだ。

「貴方に近くにいられると淹れられないわ。あっちで大人しく座っていて」

「ああ…わかったよ」

肩を竦めてモリアーティはリビングに戻っていった。
カップを傾け、ゆっくりと紅茶の香りを楽しむようにモリアーティは空気を吸い込み、口づけた。
ソーサーを戻すのを待ってからアリスは口を開いた。

「それで?何をしに来たの?」

「紅茶の感想も言わせてくれないのか?」

「……」

アリスは無言で諦めたように肩を竦めた。

「シャーロックはこの紅茶を毎日飲むのか?」

「毎日ではないわ」

「僕だったら毎日頼むよ」

「どういう意味かしら?」

「想像に任せる。君は心理学を学んでいるだろ?」

「…紅茶の評価ありがとう」

モリアーティは肩を竦めた。成る程、そうきたのね。
アリスはカップに口付けて傾け、見つめてくる彼を見つめ返した。
彼の言葉の意味は“紅茶の評価”ではないということだ。
しかし生憎陽葵は彼の“それ”に答えてやろうとは思わない。その義理もない。

「シャーロックはつまらない男だ。天使側にいるからとてもつまらない平凡な男さ」

「私は悪魔…いいえ死神の手は取らないわ、絶対にね」

「天使の皮を被った死神はとるかもしれない」

「それはどうかしらね」

面白がるような視線を感じながらアリスは立ち上がった。

「世界が彼を敵とみなしても…私は彼を信じ続けるわ」

「それは楽しみだ」

意味深な言葉に眉を顰め、アリスは口を開いた。

「一つだけ言っておくわ、ジム・モリアーティ。貴方は本当に彼を嘗め過ぎよ」

「それはこれからわかることだ。そのときになったら君にも理解できるし、暇になるだろうから遊んでやるよ」

「それは“楽しみ”ね」

「美味しい紅茶ご馳走さま」

お互い至近距離で視線を交わし、モリアーティは機嫌良さそうに微笑むと軽い足取りで出て行った。



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