君の合鍵を受け取る

事件解決に至り、シャーロックと依頼人であるアリス・ブラックフォードは晴れて“恋人”と表現するには曖昧な関係になった。
といってもあの恋愛ごとには興味のない彼だ。
世間一般の恋愛を馬鹿にすることもあるくらいなシャーロックは必要以上に
アリスに触れたりしないし、勿論ロマンチックなデートだってすることだってない。
シャーロックを知る人はみな、アリスと恋人関係に至ったことの方が驚きだった。
アリスの方も見た目は美人で恋愛のことなら経験はありそうなのだがその真逆のようでシャーロックと同じく無頓着らしい。
そんな二人は恐らくそういう関係に至ってから2人きりになっていない。
ジョンが気を遣って出て行こうとすると決まってシャーロックか陽葵が「どこに行くんだ?」「どこに行くの?」といった感じで首を傾げる。
せっかくシャーロックが恋人を作って健全になったと思ったのに、これでは以前と全く変わらない。

「こんにちは」

トントン、と控えめなノックのあった後にアリスがひょっこりと顔を出した。
新聞の記事を流すように読むシャーロックは顔を上げずに片手を挙げただけだった。
ジョンは立ち上がり、朗らかに「やあ」と声を掛けた。
抱擁と頬のキスで挨拶を交わし、シャーロックの向かい側に座らせる。

「何か飲むか?」

「ううん、構わないわ。モリーに頼まれて資料を持ってきただけなの」

“資料”というワードを聞いた途端シャーロックはようやく顔を上げて手を陽葵に向かって差し出した。
そんな彼の行動にジョンは苛立ちを感じながらアリスが鞄を探って茶色の封筒を取り出して彼に渡すのを見ていた。
彼女も大学の図書館司書を勤めながらたまに捜査に加わったりする。
図書館司書なだけあって書物の知識や歴史、法律について知識を持っているアリスは時折、シャーロックの推理を助けたりする。
シャーロックが興味ない故に持っていない知識分野に関しては特に。
書類をパラパラと捲り黙々と閲覧するシャーロックに苦笑を浮かべるアリスの双眸はこの日なぜだか少し寂しそうだった。
ジョンが「少し外に出るか」と誘うとアリスはシャーロックを一瞥し、曖昧に微笑んで頷いた。

「シャーロック、少しアリスと外に出てくるよ」

「…ああ、分かった」

書類から視線を上げずにシャーロックはそう答えた。
コートを着ながらアリスを待ち、背中を片手で押しながらエスコートする。

――ガチャン。

扉の閉まる音が部屋にやけに大きく響く。
シャーロックは書類から視線を上げ、額に皺を寄せた。

*

「今日、私書類ミスしちゃって」

彼女が白い息と共に吐き出したのはそんな言葉だった。
ジョンは驚いた。アリスが仕事でミスする話は一度も聞いたことがなかったからだ。

「ものすごく叱られたの。それでちょっとどうかしちゃったのね…ジョンがいなければ私シャーロックに寂しいって言ってしまいそうだったわ」

涙声でそう続けるアリスをジョンは慰めるように肩を抱き寄せた。

「アリス、本当にこっちに引っ越してきたらどうだ?ベーカー街ならロンドン大学から
それほど離れていないし――それにシャーロックの傍にもいれる」

しかしアリスは首を横に振って困ったように微笑んだ。そして歩き出す。
空を仰げば、灰色の雲で覆われていた。空気も冷たく雪が降りそうな雲だ。

「傍にいたら私…甘えてしまいそうで」

寂しそうに微笑む彼女の横顔を見ながらジョンはため息をついた。
シャーロックと付き合うというのはそういうことなのだ。
恋愛関係に至ったというだけでも幸運。いや有り得ないことだ。

「私、何度かシャーロックに自分のマンションの合鍵を渡そうとしてたの」

「渡せばいいじゃないか」

「ジョン、貴方なら分かるはずよ。シャーロックはきっとどこかに鍵を失くすわ」

あのゴチャゴチャの机の上とか、そう付け足したアリスにジョンは噴き出した。
確かにそうかもしれない。
それっきり彼女は黙ってしまい、ジョンはポケットに手を突っ込んで歩き続けた。
二人は公園のベンチに座り、噴水にはしゃぐ小さな子どもたちの姿をぼんやりと見つめた。

「お腹空いてないか?」

ジョンの問いかけにアリスは前を見据えたまま「少し空いたかも…」と言った。

「待ってて。サンドウィッチを買ってくる」

「ありがとう」

ジョンは立ち上がって財布の中のお金を確認した。銀行で下してきたばかりだから十分にある。
ジーパンに突っ込んだ携帯が震えたのが分かり、ジョンはポケットを探って携帯を取り出した。
シャーロックからのメールだ。最近扱っている事件のことだろう。
受信ボックスを開くと簡潔に“そのまま帰れ”という文字。

「全く…」

呆れて何も言えない。不健全なのではなく、ただ不器用過ぎるだけではないか。
学生か、と突っ込みたくなる。ジョンはそのメールに何も返さず帰り道を歩き始めた。

*

「寒」

凍てつく空気に思わずそう呟いた。しかもジョンがなかなかやって来ない。
店が混んでいるのだろうか。腕を摩りながらアリスは白い息を吐き出した。
空を仰ぎ、雪でも降りそうな雲行きに眉を寄せた。子どもたちは親に連れられて家路についていく。

「ココアとコーヒー、どっちがいい?」

隣りに座った男の声にアリスはクスリと笑いながら「コーヒー」と答えた。
スッと腕が伸びてきて熱いコーヒーの入った容器を渡された。
それを受け取りながらアリスは彼――シャーロック――に視線を向けず前を見据えたまま口を開いた。
意地でもシャーロックに目を合わせるか、と我ながら子ども染みた仕返しだ。

「ありがとう、ジョンは?」

「帰らせた」

「そう…」

コーヒーを一口、口に含み顔を歪めて思わずシャーロックへ視線を向けた。

「なに…、これ甘い!」

彼の視線と目が合い、シャーロックはフッと勝気に笑った。
あ、と気付いたときにはもう遅い。

「目が合った。僕の勝ちだな」

反射的に目を逸らし、アリスは甘ったるいコーヒーをベンチの傍らに置き白い息を吐き出した。

「別に勝負してない」

「君から仕掛けてきた」

「何も言ってない」

「僕がそう解釈した」

「それは貴方の解釈よ」

「僕の解釈は一度たりとも外れたことなんてない」

「…参りました」

「素直でいい子だ」

彼の手が無造作に頭に置かれ撫でられる。
シャーロックに視線を戻し、アリスは目を細めた。彼はアリスを一瞥し、短く笑った。
それだけでも嬉しさを感じる。
突然シャーロックは手を差し出した。それを見つめ、アリスは首を傾げる。

「くれ」

「何を?」

「ずっと渡そうとしてたモノがあるだろ?」

「…あるわ。そのモノの正体…当ててみて」

「毎回、君が来る度にそのことについて考えていた」

気付いていたのか、しかしアリスはそれほど驚かなかった。
彼なら気づいていて当然だと思ったからだ。

「その正体は?」

「分からない。それでもそれほど重たくなくて小さなものと推測できる」

「貴方にも推理出来ないものってあるのね」

アリスは鞄から何かを出して手に包み、シャーロックの手の平に乗せた。
アリスが手を退けようするとシャーロックはそのまま手を握った。

「ああ、ある。君の心の中、とか」

悪戯っぽくそう言ったシャーロック。
彼らしくない言葉にアリスはくすり、と笑った。
そして探るようにアリスの手と自身の手の間にある固くて冷たい物体に触れ始めた。

「これは…鍵か?」

「正解。誰のだと思う?」

そう問えばシャーロックは不適に笑った。

「愚問だな。アリス、君のだ」

そう言ってシャーロックは鍵を受け取り、違うモノをアリスの手の中に落とした。
細いシルバーのチェーンに繋がれた小さなアンティークな鍵をモチーフにしたブレスレットだった。

「これは?」

「何だと思う?」

アリスは彼の真意を読み取ろうとシャーロックの顔を観察したが何も分からない。
天才なだけある。

「ごめんなさい、分からないわ」

シャーロックは肩を竦めてアリスの手からブレスレットを手に取ると彼女の左腕につけた。

「“僕の心を開ける鍵”だ」

そう言ってシャーロックは軽い口付けを額に落とした。

「貴方にしては凝っている」

「ああ、僕にしては凝っている」

クスッと笑いあうと、シャーロックはアリスの肩を引き寄せた。アリスはそのまま彼の肩に頭を乗せた。
視界の端にふわっとした白が降ってくる。
雪が降ってきた、とぼんやりした頭で考えながら目を閉じてすっかり冷めたコーヒーに手を伸ばした。
それに口付けて、うぇっと顔を歪ませる。やはり甘くて冷めたコーヒーは不味い。

「不味い…」

「砂糖がたっぷり入っているからな」

シャーロックは立ち上がり、アリスに手を差し出した。
その手を掴み、帰路につく。

「帰ったら紅茶を淹れようかしら」

「それは良い。君の紅茶は美味しい」

「貴方に褒められるのは紅茶だけですから」

そう言うアリスの顔には明るい笑顔が戻っていた。



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