obstacle
「光るウサギ失踪事件を依頼してきたカースティ」
助手席でジョンはシャーロックを見遣った。
「母親が遺伝子操作の専門家ステープルトン博士だ」
「彼女が娘のウサギを光らせたのかしら」
後ろから身を乗り出せば、バックミラー越しにシャーロックと目が合う。
「蛍光遺伝子だろう。遺伝子組み換えは最近では簡単だ」
「Uh……」
「つまり?」
言葉に詰まるジョンの代わりにアリスは先を促した。
「ステープルトンは遺伝子実験を行っている。ウサギより危険な動物を扱っているかも」
「それって対象範囲が広いね」
巨大な犬を造り出すのも難しくないということか?
アリスはシートに背中を預け、顎に手を添えた。視線を感じ、顔を上げればシャーロックがこちらを見つめていた。
感情が読み取れず、困惑すればスッと逸らされた。
「さあ、着いた」
外を見れば一軒の白い家。そういえば行先を聞いていなかった。
「ヘンリーの家?」
首を傾げて問えば、シャーロックは運転席から降りながら頷いた。
「そうだ」
慌てて降り、後を追う。一体、自分は何をしているのだろう。
本当に帰ってきても良かったのだろうか。僅かな迷いを抱きつつ、2人の後を追う。
シャーロックがドアベルを鳴らすとヘンリーはすぐにドアを開けた。
「どうぞ中へ」
奥へと入っていくシャーロックの後を追う。
広い家に感嘆しながらジョンは「すごい」と洩らした。
「君って金持ちなの?」
「ああ」
ジョンと思わず顔を見合わせ、軽く肩を竦めてみせた。
開放感のあるリビングへと案内され、席に着くとヘンリーはお湯を沸かしていた。
「コーヒー?」
「ああ」
「ああ、うん。…いや、お構いなく」
「ありがとう、頂くわ」
セットを用意する様子を眺めていると視線を感じ、伏せていた瞳を上げるとヘンリーとばっちり目が合った。
戸惑うように眉根を下げ、微笑を浮かべながら「なに?」と聞けば、ヘンリーはじっとこちらを見つめたまま「君って」と口を開いた。
湯気の立ったコーヒーを出され受け取りながら耳を傾ける。隣にいるジョンは砂糖も入れずにそれを一口啜った。
シャーロックは砂糖を何杯も入れている。体に悪そうと思いながら微かに顔を歪め、それを一瞥し、ヘンリーへと視線を戻す。
「君って綺麗だよね」
「ぶっ……」
「ジョン、大丈夫?」
噎せたジョンの背中を摩ってあげれば「ありがとう…僕は大丈夫だ」と咳き込みながらも言った。
シャーロックの砂糖を入れる動作は一瞬止まったが彼は静かにジョンを一瞥し、そのまま続けた。
いつもよりも砂糖を入れている気がするが大丈夫だろうか。
ヘンリーは変わらずこちらを見つめたままだったので「どうも」と返しておいた。
「二つの言葉が見えてくるんだ“liberty”【自由】」
「liberty?」
ジョンはポケットからメモ帳を取り出し、それを書き込んだ。
「“liberty”【自由】と…“in”【〜の中に】。それだけ。もう使った?」
砂糖を掲げるヘンリーにアリスは不要なことを伝えた。
「libertyとin…」
「意味は?」
「“自由は死の中にある”真の自由だ」
ヘンリーは落ち着きなく「それで?」と聞いた。
「シャーロックに計画が」
「ああ」
シャーロックにニッコリ笑った。
「君と湿原へ」
ヘンリーの顔がみるみる恐怖で引き攣るのがわかった。正気なのか、とでも言いたげだ。
「襲われるか試す」
「え」
ジョンは驚いたようにシャーロックを見遣った。アリスは驚きつつも妥当な方法だと納得していた。
シャーロックの行動は実にシンプルだが確かに自分の目で見ないと検証はできない。最も確実だろう。
「一気に大詰めへ」
「夜に?夜にあそこへ?」
ヘンリーの顔は蒼白だ。彼は平気なのだろうか。
「それが計画?」
ジョンは笑った。
「なにか?」
シャーロックの顔は涼しげだった。
「無茶だ」
「私は賛成よ」
すかさず口を挟めばジョンは驚いたようにこちらを見つめてきた。
「なんだって?」
「怪物がいるなら生息地を調べなきゃ。それしかないわ。」
シャーロックは満足げにニッコリ微笑み、ヘンリーを見遣った。
「ということだ」
日が沈むまで時間があった。アリスはそれまで庭のベンチで静かに読書をすることにした。
どれくらいそうしていただろうか。頬に当たる冷たい風に目を開けた。いつの間にか瞼を下ろして眠ってしまったようだ。
辺りはオレンジ色に染まっているような気がする。もう夕方か。ぼんやりとする頭に覚醒を促そうと身動ぎすると耳元で低い声が聞こえた。
「起きたか」
腰が抜けるかと思った。アリスは危うく声を上げそうになったがどうにか呑み込んだ。
体はいつの間に毛布に包まれていた。それとシャーロックに寄りかかって密着して寝ていたおかげか体は冷えていない。むしろぽかぽかと温かい。
「いつの間に寝ていたのね。毛布ありがとう」と平静を装って体をゆっくりと起こした。
シャーロックは本に視線を落としたまま「ああ」と言った。枯葉と木々が擦れる音がした。
心地よい冷たい風と辺りを包む静寂な音にアリスは欠伸を噛み殺した。膝元の本の表紙に触れているとシャーロックは口を開けた。
「戻ってこないと思った」
はっと彼を見遣ればいつの間にかシャーロックは本を閉じてこちらを見つめていた。
「そのつもりだったわ」
アリスはじっと白い家を見据えた。シャーロックがこちらを見つめているのがわかる。
「僕は去る者を止めない」
「でも引き止めた」
シャーロックへと視線を戻せば、彼は目を細めてこちらをやはり見据えた。
「ああ…そうだ。僕は……君に傍にいてほしかった」
ゆっくりと彼らしくもない言葉をたどたどしく口にするシャーロックにドキリとした。
彼自身も不可解そうに眉間に皺を寄せ、その言葉を紡いだのだろう。
それでもわからない。言葉では言い表せない関係だ。恋人でもない。それじゃあ利害関係。いいえ、違う。友人だ。きっと彼の数少ないお友だち。
ジョンは親友で、自分は一体。なぜこんなにも彼との関係へと名前にこだわるのだろう。そんなことどうでもいいではないか。
「アリス」
彼の声が掠れた。そんな彼の声の動きに動揺する。ただ名前を呼ばれただけなのに。
感情が込められているような気がした。それともそんなの都合の良い解釈なのだろうか。
瞳を揺らしながら彼を見上げれば、頬をゆっくりと優しい手つきで撫でられた。好き?まさか。
彼の後ろから差す夕陽の眩しさに思わず目を閉じれば、顔に濃い影がかかる。間近に感じる彼の匂いと吐息に心臓が心地よく跳ねる。
すぐ傍に彼がいる。額同士がコツン、とぶつかった。唇が近づいてくる気配。
「シャーロック、アリス」
背後から聞こえたジョンの声にシャーロックが離れていく気配。アリスはしばらく目を閉じ、開けて振り返った。
只ならぬ雰囲気を感じ取ったのだろうジョンは戸惑うようにシャーロックとアリスを交互に見つめた。
シャーロックはアリスの左手首を持ち上げ、腕時計を見下ろした。
「そろそろ行くか」
「ああ、そうだね」
先に家へと入っていくシャーロックを見送り、ジョンはベンチに腰を下ろしたままのアリスを見遣った。
「もしかして僕邪魔した?」
「さあ、知らないわ」
アリスはササッと腰を上げて、シャーロックの後を追った。