Our relation


「あんたの負け。俺は見た。1か月前に。窪地でね。霧で客が少ない日だった」

「証人はいない」

「そう」

「平凡だ」

シャーロックはそう返した。

「待てよ」

フレッチャーはスマートフォンの画像を掲げて見せた。写真の中に映る黒い犬。
何だか普通に見えなくもないが……。

「見ろ」

シャーロックは小馬鹿にするように顔を歪めた。

「こんな物が証拠だと?ジョン、僕の勝ちだ」

「待ってくれ、まだあるんだ。みんな窪地には行きたがらない。嫌な感じがするから」

「呪われているのか。それを信じろと?」

「あーそんなのじゃない。あそこには何かいる。バスカヴィルから逃げた何かだ」

「遺伝子操作された犬?」

「かもな。あの研究所は長年、何をまき散らしてるか分からない」

「証拠は写真だけ?」

シャーロックがそう言うとフレッチャーは一瞬、考え込むように唇を舐め、視線を落とした。

「国防省で働く友人と、ある週末遊ぶ約束だったが来なかった。夜になって青い顔で現れた。
今も思い出すよ…彼は恐ろしいものを見た、と。二度と見たくないほど恐ろしいものを。軍の秘密の施設でね。どこかの研究所さ。バスカヴィルかも。
その秘密の研究所で彼は恐ろしい生き物を目にしたそうだ。犬ほど大きいネズミ、そして犬は馬ぐらい大きかった」

彼の手には大きなゴツゴツとした岩が握られていた。よく見れば何かの足跡であることがわかる。
獣の足跡であることに違いはないだろうが問題なのはその大きさだ。シャーロックを盗み見れば、彼は表情を崩さずにそれをじっくりと眺めていた。
さすがに彼もこれには言葉を失ってしまったようだ。それとも、何かを思考して言葉を発しないのか。

「50ポンドだったね」

ジョンはそう言った。フレッチャーはその言葉にニヤリと笑って見せた。
シャーロックはコートのポケットから財布を取り出すと無言でジョンへ札を渡した。

「どうも」

もうフレッチャーに用はない。シャーロックは立ち上がると歩き出した。
ジョンとアリスは互いの顔を見合わせ、彼の後を追った。

*

シャーロックの運転する車は何もない一本道を通り、簡素な造りの門を潜った。
彼方此方には軍服を着た男たちが歩いている。
アリスは自分の体を見下ろした。太ってはいないがあの筋肉のついた腕に勝てる自信などなかった。自分が場違いな気がしてならない。
『BASKERVILE』と大きく表記された看板に、高いフェンス、厳重なセキュリティ。
1人の軍人が手を上げて停まれと合図をした。シャーロックはどう突破するつもりなのだろうか。まさか強行突破はするはずあるまい。
シャーロックは素直に指示に従って窓を開けて停車させた。

「許可証を」

アリスは無意識に背筋を伸ばした。
シャーロックはゴソゴソとポケットを探り、カードのようなものを取り出し、それを手渡した。

「どうやってここの許可証を?」

同じく疑問に思っていたらしいジョンがそう聞いた。

「ここ以外も入れる。兄のものだ。万能の許可証。昔、盗んでおいた」

成る程。お兄さんのものか。アリスの記憶の中でまだ新しい人物。

「それじゃあロンドン大学もあれで入ったのね」

シャーロックは振り返って薄く微笑んだ。

「ロンドン大学はあんなもので入ってない」

「最高だ。捕まる」

ジョンはカードを読み込んだ液晶に表示された画像を見遣り、そう言った。
どう考えても顔が一致しない。焦ったようなジョンとアリスの視線を受けてもシャーロックは涼しい顔を崩さなかった。

「大丈夫さ」

「5分で捕まるよ。気軽に秘密基地を見学か?お茶でも飲む気か。撃たれる。」

ところが「問題なし」の言葉を合図に固く閉じていた門とセキュリティはあっさり目の前で開いた。
ジョンとアリスは互いの顔を見合わせた。

「直進を」

シャーロックはすぐに車を発進させた。

「マイクロフトの名前で扉が開いた」

「言ったろ。兄は政府そのものだ。不正がバレるまで20分はある」

シャーロックはしばらく車を進ませ、施設一角で車を停めた。
ジョンとシャーロックが降りるのを見てアリスは着いていくか迷ったがすぐに車から降りた。1人の軍人の後に続く。
そこへ一台の車両が停まり、中から慌てたように軍人が出てきた。

「問題か」

「敬語を使え」

シャーロックはそう言った。
この状況で自分は何役に徹するのが正しいのだろうか。
背筋を伸ばし、ジャケットの前ボタンをとりあえず留めておく。

「失礼しました」

「出迎えか」

「警備のライオンズ伍長です。問題でも?」

「その確認を」

「今まで査察はなかったもので」

「抜き打ち査察だ。…第5歩兵連隊のワトソン大尉だ」

それを証明するものがあるらしくジョンはそれを掲げた。ジョンとライオンズ伍長は敬礼を交わす。

「バリモア少佐にお会いを」

「時間がないのですぐにご案内を」

アリスは出来るだけ凛とした声で言った。戸惑うライオンズ伍長にシャーロックは「僕の秘書だ」と言った。
逡巡するライオンズ伍長にジョンは「これは命令だ」と言い、促した。
ライオンズ伍長は頷き、カードリーダーに自分のIDを読み込ませた。電子音と共に『ACCESS GRANTED』と表示される。
続いてシャーロックも“万能の許可証”を読み込ませた。

「上手いぞ」

「久々に命令を」

「楽しんだ?」

廊下を進み、エレベーターの前で再びカードスキャナーでカードを滑らせる。厳重なセキュリティだ。
軍の基地の中というのはこんなにも厳重なのだろうか。ライオンズ伍長は迷わずB1Fを押した。
降りた先は広い研究室のような場所。研究員たちが忙しく働いている。檻の中にいたサルが鳴き声を上げた。

「動物の数は?」

「多数です」

「逃げることは?」

「動物はエレベーターを使えません」

「人が助ければ…」

そのとき1人の男が近づいてきた。研究者のようで白い防護服を着ている。

「こちらは?」

「フランクランド博士、査察です」

「新顔だね、よろしく。油断すると出られなくなるよ」

彼はそう言うと去って行った。

「エレベーターはどこまで?」

「かなり下まで」

「下には何が?」

「廃棄物置き場です。こちらへ」

ライオンズ伍長が再び歩みを進める。それにジョン、アリス、シャーロックと続いた。

「何の研究を?」

「ご存知では?査察でしょう?」

「私の専門外だ」

「幹細胞研究から風邪治療まで」

「主体は兵器?」

「まあ、そうです」

科学は苦手だ。研究者たちが一体何をしているのか。アリスはさっぱりだった。
シャーロックはわかるのだろうか。チラッと背後を振り返れば、彼は彼方此方へ視線を巡らせていた。それと同時に彼の脳もフル回転なのだろう。

「生化学兵器」

「次々現れる新しい敵に備えねばなりません」

シャーロックがライオンズ伍長に続いてカードを読み込ませる。
次の室内には女性の研究員がいた。

「OK。ハーロウ3を試しましょう」

「ステープルトン博士」

「はい」

ステープルトン博士は3人へ視線を遣った。

「どなた?」

「政府上層部から査察が」

「本当」

シャーロックは口を開いた。

「質問に答えてもらいます。博士の仕事は?」

ステープルトン博士は呆けたようにシャーロックを見上げた。

「単純な質問でも答えて」

ジョンはフォローするようにそう言った。

「言えないわ。機密です」

「言ってもらいます。そうお勧めする」

シャーロックは声音を低めてそう言った。

「私の研究は多岐にわたる掛け合わせがテーマ。遺伝子操作で動物を変化させる」

「貴方の名前を知ってる」

シャーロックはそう言った。

「まさか」

アリスは戸惑うようにシャーロックの背中を見つめた。

「偶然があるからこそ人生は面白い」

シャーロックはそう言いながらメモにペンを走らせ、目の前で掲げた。
『BLUE BELL』。確かに彼のメモにはそう書いてあった。
ブルーベル…どこかで聞き覚えのある単語だ。あ、光るウサギ。『ブルーベル失踪事件』だ。

「娘と話をしたんですか」

「なぜウサギは死んだんです?」

「「ウサギ?」」

ジョンとアリスは素っ頓狂な声を上げた。

「鍵付きの小屋から消えた。内部の犯行だ」

「まさか」

「体が光ったせいですか」

「何の話かしら。あなたは誰?」

シャーロックは腕時計へ視線を落とした。時間のようだ。

「査察は以上だ。伍長」

「出口はこっち?」

シャーロックが踵を返して出口へと向かう。

「う、ウサギ?」

ジョンとアリスは顔を見合わせてから彼の後を慌てて追った。

「待って!」

後ろから声が聞こえるが彼は振り返らない。

「ウサギの事件を調べにきたのか?」

ジョンはそう問うがシャーロックは答えない。彼はカードを黙って滑らせた。
研究室を出て、足を速めるシャーロックを無言で追う。
そのとき彼のiPhoneにメールを報せる音が響いた。胸元のポケットを探り、彼は片手でそれを開いた。

「23分か。兄も鈍くなったな」

エレベーターの扉が開き、中へ乗り込もうとして足を止める。

「やあ、また会ったね」

フランクランド博士だ。そこに乗り込み、上昇する感覚にアリスは少しの間、目を閉じた。エレベーターは気分が悪くなる。
開いて出ようとするとそこに誰かが立ちはだかっていた。

「少佐…」

ライオンズ伍長は少し背を正した。
厳つい男はシャーロック、ジョン、アリスの顔を順番に見据え、目を細めた。
そして侵入者を許さないとばかりの敵意剥き出しの表情のまま、口を開いた。

「なぜ私に話しを通さない?」

「バリモア少佐ですね?どうも。感銘を受けました。ホームズ氏も」

ジョンは引き攣った顔でそう言い、手を差し出したが握手を交わす雰囲気ではないことを察し、すぐに引っ込めた。

「非常にね」

シャーロックはそう言ってバリモア少佐の横をすり抜ける。
アリスは引き攣った笑顔を浮かべ、軽く会釈をし、シャーロックの後に続いた。

「馬鹿げた官僚主義だ」

バリモア少佐が後ろで怒鳴っている。

「少佐には悪いが政府の新しい方針で査察を。止まるな」

シャーロックに腕を引かれ、戸惑いながらも続く。

「少佐!身分証無効の連絡が」

ライオンズ伍長がそう言うと警報が作動した。
これってとっても不味い状況なのではないか。アリスは手首を掴まれたまま、立ち止まって振り返ったシャーロックの顔を見上げた。
目が合うが彼の表情は読めない。彼はこの状況の打開策を考えているのだろう。きっと。

「本当か。君は誰だ?」

鋭い目でこちらを見遣るバリモア少佐にジョンは「何かの間違いでしょう」と返す。

「あり得ない」

「コンピューターのエラーです」

疑うバリモア少佐にジョンは必死に言い繕う。

「少佐、彼らのことは保証する」

フランクランド博士の言葉に顔を上げた。

「すぐには分からなかった。ここで会うとは意外でね」

シャーロックもこれには戸惑っているようだった。

「やあ、マイクロフト」

シャーロックは表情をすぐに顔を引き締め、ニッコリ微笑んで握手を交わした。

「ホームズ氏とはWHOの会議で会った。ブリュッセルだったかな」

怪訝そうにするバリモア少佐を一瞥しシャーロックは柔らかい表情を崩さずに「ウィーン」と答えた。

「そうだった。確かにマイクロフトだ。エラーに違いない」

バリモア少佐はそれを聞いてライオンズ伍長へ目配せした。彼は頷き、セキュリティ室へと向かっていく。

「何かあったら博士の責任ですよ」

警報が鳴り止み、心の中で安堵に息をつく。

「あとは私が」

施設から外に出て今度こそ息をついた。ジョンから労わるように肩を撫でられ、苦笑いを返す。

「ありがとう」

シャーロックはフランクランド博士にそう言った。

「ヘンリーの件だね?」

横に並ぶフランクランド博士を見遣り、歩く。

「彼が悩んでいるのは知ってたがシャーロック・ホームズに依頼するとは」

ああ、やっぱり彼はシャーロックのことを知っていたのか。

「君を知ってた。サイトの常連なんだ。例の帽子は?」

「僕のではない」

「トレードマークだ」

ジョンは笑った。

「私物じゃない。」

「先生のブログも」

「どうも」

ジョンは嬉しそうにそう返す。

「ピンクの事件やアルミの松葉杖事件」

フランクランド博士は次にアリスへ視線を遣った。

「もちろん、君も知っているよ」

「まさか。そんなはずないです」

ブログはやっているがそこまで有名ではない。

「彼の恋人なんだろう?」

その“彼”が誰だか導き出すのに時間がかかった。

「はい…?」

分かった途端、面食らう。彼とはそんな関係ではない。
一体どこの記事にそんなことが書いてあったのだろう。そもそも記事に書いてあった有力説はジョンのはずだったが。

「ヘンリーとは?」

シャーロックは話をはぐらかすようにそう問うた。

「父親を知ってた。この施設について妙な憶測を。でも友だちだった」

立ち止まり、フランクランド博士は振り返った。
視線の先には先ほどのバリモア少佐が立っており、こちらの様子を監視するように睨んでいた。

「ここでは話せない。携帯番号だ。ヘンリーの件で力になる」

フランクランド博士は小さな紙切れを取り出すとペンを走らせ。それをシャーロックに手渡した。

「電話を」

「フランクランド博士、貴方の仕事は?」

「もし話したら君を殺さないといけない」

軽くそう言って笑ってみせる博士。

「研究者には重荷だな。ステープルトンの話を」

「同僚の陰口は…」

「褒める気はないわけだ」

「そのようだ」

「連絡します」

「どうぞ」

フランクランド博士と別れ、再び歩き出す。

「それで?ウサギの件は」

シャーロックはコートの襟を立てた。

「またそれか。勘弁してくれ。いつもミステリアスにキメてる。その頬骨。カッコよく立てた襟」

「やってない」

「やってる」

ジョンはそう言いながら助手席に乗り込んだ。シャーロックはアリスへ視線を遣った。肩を竦め、アリスは後ろに乗り込んだ。

(そういえば私ってシャーロックにとって…なに)

自分の中の新たな問題点にアリスは顔を微かに顰めた。






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