Henry's case


『神秘と伝説の地、ダートムア。しかし、もっと現実的な――』

テレビから流れる女性の声。アリスは音を立てないようにカップを持ち上げ、紅茶に口をつけた。
それからシャーロック・ホームズとジョン・ワトソン、大学の通りで知り合ったばかりの…つまりシャーロックのクライアントである青年ヘンリー・ナイトへ視線を遣った。

(何でこうなったのよ…)

両手で頭を抱えそうになる。頭痛すら起きそうだ。
勝手に出て行ったのは自分だし、自分は元クライアントだ。(クライアントになるまでの経緯が他者と比べて強引だが)

「アリス」

「っ、なに」

カップをソーサーへと戻し、思わず背筋が伸びる。

「集中しろ、話は後だ」

上唇と下唇を合わせ、アリスは「はい」と返した。
ヘンリーが持ってきた事件に集中しよう。きっと自分には解けないだろうが。
いや、その前にシャーロックが興味を持つかすら分かっていない。

『別の一面も存在します』

看板の“KEEP OUT”の文字。テレビ画面に女性のレポーターが歩きながら語り続ける。

『それは政府の機密計画を進める、生物化学兵器研究所』

何ともSF的な話だ。シャーロックは苛立ったように指を擦り合わせ、頬杖をついている。まどろっこしいのだろう。
視線はテレビへ行ったり、ヘンリーへ行ったり。今このとき彼は何を考えているのだろう。
じっと彼をいつの間に見つめていたのか、視線に気づいたシャーロックと目が合った。スッと逸らし、テレビに集中する。
画面には"BASKERVILLE"と表示されている。レポーターの言う研究所らしい。

『ポートンダウン以上の謎の施設です。第二次大戦以降“バスカヴィルの実験”の噂は尽きません。遺伝子変異による動物兵器の開発。
湿原の中のこの施設に想像を絶する怪物がいると信じる人は多いのです』

自分はあまり生物学に精通していないし、そもそも学んでいた学科とは全くの別世界なので分からないが非論理的なように感じる。
科学は得意科目ではないのでよく分からないがこういったことは科学的にOKなのだろうか。

『果たして怪物は存在するのでしょうか』

シーンが切り替わり、ヘンリーが映った。
重々しい口調、それからやはり青白い顔で話す彼。

『僕は子どもだった…。湿原で…暗かったけど確かに見た。』

画面に一枚の子どもが描いた絵が映し出される。赤い目、真っ黒で凶暴そうな犬の絵だった。
これがヘンリーの見た怪物――?

『父を殺したものを』

シャーロックは溜息をつき、テレビを消した。ヘンリーは戸惑うように彼を見遣った。

「何を見た?」

「今、言うところだった」

「テレビの編集なしの話を」

シャーロックは手を合わせ、呆気に取られたヘンリーを静かに見据えた。

「そうだね」

ヘンリーは気を取り直すように紙ナプキンで鼻をかんだ。
シャーロックの表情は一見変わらない。しかし今ので少しの変化が一瞬起きた。
アリスはそれを見逃さなかった。今ので何が分かったというのだろう。

「焦らず。でも早く」

ヘンリーは一呼吸置いて口を開いた。

「ダームトアをご存知ですか」

「知らない」

「他にはない魅力のある素晴らしい場所です。荒涼とした美しさが――」

「興味がないので先を」

シャーロックは短く唸って遮った。
ジョンはアリスと顔を合わせ、一瞬眉を顰めた。
小さく肩を竦め、気分を害していないかヘンリーを見遣ったが軽く俯いただけで変化らしい変化はない。

「母の死後、よく父と散歩した。毎晩、湿原を」

「父親が殺された夜の話を。事件はどこで?」

焦れったくなったらしくシャーロックはそう言った。

「場所は……地元ではよく知られたデュワーズ窪地」

ヘンリーは一度言葉を切り、シャーロックへ視線を送った。

「古語で悪魔のことだ」

シャーロックの片眉がピクリと撥ね、それがどうしたとでも言うように首を傾げた。

「それで?」

「その夜、悪魔を見たのか?」

戸惑うようにジョンへ視線が投げられ、代わりにジョンが質問した。
途端、ヘンリーの声の調子が変わった。怯えたように、答えるのがやっとであるかのようにか細く「そうだ…」と答えた。

「“アレ”は巨大で…真っ黒な毛皮に覆われてて…目は…赤かった…」

妄言ではないのだろうか。疑いを表情に出すといけない。アリスは注意深くヘンリーを観察した。

「そいつがバラバラに引き裂いて父を殺した…」

恐怖の記憶から抜けられないでいるようだった。濃い恐怖が表情に出ている。

「それしか覚えていない。僕は湿原で保護された。父の遺体は出なかった」

部屋に間が訪れた。何の痕跡もなかったというのもおかしな話だ。
食べられたにしても骨の断片くらいは出てきそうだし、血痕だって残っていてもいいような気がする。

「赤い目、真っ黒な毛皮。巨大な狼。犬か狼かな」

ジョンがシャーロックに言った。

「遺伝子操作かも」

シャーロックがそれに答える。
それを見たヘンリーは微かに皺を寄せ、口を開いた。

「僕を笑うんですか」

「冗談でも言っているのか」

「父はよくバスカヴィル研究所の話をした。怪物を作っていると言ってみんなに笑われてた。テレビ局は僕を信じてくれた」

「地方の観光促進になった」

アリスは素朴な疑念を抱き、身を乗り出して口を開いた。

「ヘンリー。父親の事件は20年も前のことでしょう?なんで今になって依頼をしたの?」

「全て笑いごとだと思っているなら助けにはならない」

憤慨したようにヘンリーはそう言い捨てて椅子から腰を上げた。

「昨夜、何があった?」

シャーロックはヘンリーの背中一瞥し、ジョンに向かってそう問いかけた。
怪訝そうにジョンは「昨夜って?」と首を傾げながらヘンリーを見上げる。
その言葉にヘンリーは足を止め、振り返った。戸惑うようにシャーロックへ視線を遣る。

「なぜそれを知ってるんだ」

「観察した」

アリスはその言葉にヘンリーへ視線を三度やった。
昨夜のことがわかるような特徴はアリスにはわからない。じっくりと目を凝らすがやはり何も分からなかった。

「始発列車利用。まずい朝食にブラックコーヒー。通路向かい側の女性に惹かれたが今は冷めた。今日の一本目のタバコを切望」

一気にシャーロックはそれを言い放ち、続けて「座って、そしてタバコを」と言った。
信じられないような驚きと当てられたことへの戸惑いを隠さず、ヘンリーはゆっくりと腰を下ろした。

「なぜわかったんです?」

「「流して」」

弾丸のような彼の“観察”に関しての解説が始まる前に止めようとジョンとアリスはほぼ同時にそう言ったが遅かったようだ。

「改札パンチのクズ」

「シャーロック」

ジョンは制そうと名前を呼んだがアリスはもうすでに諦めていた。
彼の頭脳を止められる人は世界のどこにもいない。いや、兄のマイクロフトとモリアーティなら可能だと思う。
“ただの天才”でもシャーロックにとっては“凡庸な頭脳”と同じ分類がなされる。

「いいだろ」

「自己顕示だ」

「もちろん、それが僕の仕事だ」

諦めたように溜息をついたジョンを一瞥し、すぐにまた彼の言葉は続く。

「列車の紙ナプキンにブラックコーヒーの染み。ケチャップの跡が袖と唇に。列車の朝食セットかサンドイッチ」

「なぜ不味かったとわかるんです?」

シャーロックは当然のことを言うように「列車の朝食だから」と短く答えた。

「ナプキンに女性の筆跡。電話番号を書いた。角度からして通路の反対側。後で不運なことにコーヒーを零して拭いて番号が滲んだ。君がペンでなぞった跡がある。でも今はもう鼻を拭いている。もう興味は冷めた。ニコチンで黄ばんだ震える指。列車やタクシーの中で吸えなかった。9時15分、我慢の限界だ。エクセター始発は5時46分。朝一番に来たのは昨夜何かがあったからだ。何か間違いは?」

早口で言い切ったシャーロックをやはり信じられなそうにヘンリーは見つめた。
しばらくして息を止めていたのか彼は息を漏らし「いえ」と言った。満足そうに微笑むシャーロック。全く変わっていない。

「その通りだ。すごいな…評判は聞いていたけど…」

ジョンは軽く眉を上げた。

「これが仕事だ」

シャーロックはそう言い、身を乗り出した。突然の彼の行動にアリスはポカンとする。

「さあ、吸って」

ジョンはそれを見て咳払い一つし、「ヘンリーご両親は2人とも亡くなったわけだね。7歳で独りに?」と問いを投げた。
タバコを吸い始める彼を見つめ、シャーロックは身をまたヘンリーへと寄せた。

「そうです」

戸惑う彼が目に入っていないかのようにシャーロックは副流煙を吸い込んだ。

「トラウマになっただろう。君の心が幻影を生み出した可能性はないかな」

ジョンの言葉はシャーロックの煙を吸い込む行動で途切れた。

「傷への対処として」

「その説はモーティマー先生も」

「誰?」

ジョンは眉根を顰めるとシャーロックは短くセラピストと答えた。ヘンリーの視線を受けるとシャーロックは「明白だ」と微笑んだ。

「ルイーズ・モーティマー。彼女の勧めで故郷に戻った。自分と向き合う為に」

「昨夜、デュワーズ窪地で何があった?セラピーとして行ったのになぜ探偵に相談を?」

「窪地は奇妙な場所だ。身の内に冷たい恐怖が満ちる」

シャーロックは呆れたように首を横に振った。

「陳腐な詩情はジョンに任せよう。何を見た?」

ジョンは深々と溜息をついた。

「足跡を…父が引き裂かれた場所に」

シャーロックの期待するような話ではなさそうだ。
彼はハズレと言わんばかりに肘掛け椅子に深々と座り直し、溜息を零した。
すかさずジョンが口を開く。

「男女どちらの?」

「どちらでも…」

「足跡?たったそれだけ?」

「ええ、でも」

「やはり傷ついた心が生んだ妄想だ。退屈!ではこれで。」

「でも足跡が」

「動物か何かだろう。意味はない。デヴォン州に帰ってお茶でも」

「ホームズさん」

縋るようにヘンリーは彼を呼んだ。

「巨大な犬≪ハウンド≫の足跡だったんだ!」

その言葉にシャーロックは足を止めた。そしてゆっくりと振り返って口を開いた。

「もう一度、言って」

「足跡を見つけて…」

「そうではなくてさっき言った言葉を使って」

ヘンリーは思い出すように「ホームズさん」とゆっくり語りだした。

「僕が見つけた足跡は巨大な…犬≪ハウンド≫のものだ」

シャーロックは微かに笑った。

「依頼を受ける」

「ごめん、何だって」

ジョンは戸惑ったように顔を上げた。彼が心変わりした理由がまったくわからない。

「興味深い事件をありがとう」

「待って。足跡を退屈だと言ったのに今は興味深いの?」

アリスはシャーロックを見上げた。

「足跡の話じゃない。バスカヴィルの名を?」

「秘密の施設だ」

ジョンは頷く。

「そこから始める」

「現地へ行くんですか?」

「僕は忙しくて行けないが優秀な助手を送る」

シャーロックはジョンの肩を軽く叩き、アリスの頭をぽんぽんと軽く撫でた。
ちょっと、待って。私、助手になった憶えないわ。その言葉も言わせてくれない。

「理解力はないがデータ収集の名手だ。もう1人も無駄な知識をたくさん持ってる」

無駄って。非難めいた視線をシャーロックに送るが彼は知らんぷり。

「忙しい?事件がないと文句を言ってたくせに」

「光るウサギ。ブルーベル失踪事件がある」

抗議の声を上げるジョンの言葉をシャーロックは遮るように言った。
光るウサギ?ブルーベル?まるでファンタジーだ。
アリスは訳が分からずジョンを見遣れば呆れたように「小さな女の子からの依頼さ」と小声で答えた。

「ホームズさんは来ないの?」

ヘンリーは不安そうに言った。シャーロックは残念そうに首を横に振った。

「わかった…負けたよ」

ジョンは立ち上がって諦めたようにそう言った。
それから骸骨から箱を取り出し、シャーロックに向かって投げた。受け取ったシャーロックはそれを投げ、「もういい。調査に行く」と言った。

「ヘンリー、後から行く」

「つまり来るんだね?」

「20年前の失踪。犬の怪物。逃す手はない」

そう言ってシャーロックは部屋へと引っ込んだ。
支度を始めるシャーロックとジョン。アリスはどうしようかと立ち尽くすしかない。

「…ど、どうしよう」

「アリス」

「……!」

名を呼ばれ、振り返るとひょっこりとドアから顔を出すシャーロックの姿。

「君も来い。荷造りしてここに集合だ」

「…ええ、わかった」

シャーロックは微笑んでまた引っ込んだ。
アリスはドキドキする心臓の辺りに手を添え、息をついた。
よし、と気合いを入れ、コートを羽織って外へと飛び出した。






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