Come back



ドッドッドッ…、鼓動の音が聞こえる。荒い息遣いと共に駆ける。小さな足で自分は“アレ”から逃れることは出来るだろうか。
男の悲鳴、獣の唸り、呼吸。それ以外に音は聞こえない。いや、それはそこにしか焦点が当たっていないから。
これはあの悪夢だ。青年は小さく唸り、周囲を見渡した。霧立つ湿原。デュワーズ窪地。変わってない、そうだ。そのために自分はここまでやって来たのだから。

「あなた、大丈夫?」

目を開けば、美しい女が立っていた。

*

「助かります」

ヘンリー・ナイトは言った。先ほど大学の通りで会った青年だ。
隣りを歩く女――アリス・グレイは「いいの、気にしないで」と微笑んだ。
青年の顔は青白く何かに苦悩しているように見えた。見えない何かに苦しんでいるようなそんな彼を放っておけるわけもなかった。
行先を聞いたときは驚いてしばらく固まってしまったが少し案内するくらいどうってことないはずだ。

「ここよ」

「ここ、ですか」

ベーカー街221b。ここへは一体、何か月ぶりにやって来ただろうか。
いや、意外と経ってないように感じる。お馴染みの窓を見上げ、アリスは微笑んだ。

「じゃあ、私はここまで」

「あ、はい。ありがとう」

「それじゃあ、幸運を祈ってる」

シャーロック・ホームズとジョン・ワトソンが貴方の事件を解決してくれることを。
心の中でそう続け、アリスは踵を返した。さあ、帰ろう。もうここには用はない。
しばらく歩くとポケットに突っこんでいたiPhoneが震えた。思わず立ち止まりかけたが息を吐き出してポケットの中からそれを取り出す。
画面に表示された番号は知らない。歩き続けながら電話に応答した。

「hello?」

「止まれ」

「え」

低い声に思考が停止し、立ち止まった。

「そう、いい子だ。そのままこっちを向いて」

声に従ってアリスはゆっくりと振り向いた。サァァ、と風で前髪が舞い上がる。
それを押さえつけ、元の分け目に整えながらソロソロと視線を上げた。窓に佇む男の表情はここからではよくわからない。

「帰ってこい、僕らの部屋に」

穏やかな声にアリスは何も返せず、息を詰まらせる。
通話が強制中断された。向こうが切ったようだ。ゆっくりとiPhoneを耳元から離し、それを胸元の辺りで握った。視線を揺らす。

シャーロック

アリスの小さく呟いた声は通りの車に掻き消された。




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