last Liverpool night
アリスは海岸遊歩道を歩いていた。リヴァプールにいるのも残り僅か。明日の明け方の列車に乗ってロンドンへ戻る予定だ。
都会とは思えない、とてもひっそりとした静かな場所。病院はすぐに退院できた。新しい吸入器を渡され、医者にこっ酷く怒られて。
あまり強くない体にムチを打つような真似は控えてください、と。
眩しい夕陽を眺めながらゆっくりと歩く。潮の匂いがツン、と鼻を刺激した。
眉を顰め、唇を歪めて笑う。あまりいい匂いではない。でも嫌いではない匂いだった。
頭上のランプに明かりが灯り始めた。背後から靴音が聞こえ、振り返る。
「モリアーティ」
サングラスをかけたモリアーティはニヤッと笑うと近づいてきた。
「何か用?」
「別に用も何もないさ。アリス、君の今後が気になって。まあ今後の僕の計画に損害を出されたらと思うとね。困る」
「貴方の計画通りに行かないわよ。私はあそこを出るのだから」
モリアーティは興味なさそうに肩を竦めた。
「多少狂うけどまあ、いっか」
大したことないのかもしれない。モリアーティの計画にとって、自分の存在は。
何歩か歩き木の床に腰を下ろした。背後にモリアーティがいるのがわかる。
「…天才が考えることはさっぱり理解できないわ」
「理解出来っ子ないよ。天才は僕だけだからね」
「またゲームで会えたら会いましょう」
アリスは投げやりに言い放った。
すぐ後ろから囁くような声が聞こえた。
「君を是非とも招待するように手配するよ」
アリスは静かに目を伏せた。
モリアーティならそう言うと思った。
必ず自分は彼の言うゲームに招待されるだろう。アリスはゆっくりと振り返った。
そこには誰もいない。向こうの方でカップルがゆっくりと歩いていく。寄り添い合う老夫婦の姿もあった。
その向こうからジョンが走ってくる。
「ジョン…」
立ち上がり自分からも歩み寄ればジョンは息を切らして「ここにいたか」と呟いた。
「ごめんなさい、ここにいられるのも僅かだったから…」
「そうだね…歩こう」
「ええ」
ホテルに戻るための道を歩いていく。
ザァザァと押し寄せる波の音が遠のいていった。
*
ホテルへと戻るとシャーロックはウロウロと行ったり来たりを繰り返していた。彼はロンドンへ早く戻りたくて仕方ないといった様子だった。
解決した事件にはまるで興味がない。
それは予想していたことだ。早く区切りをつけないといけない。自分の気持ちにも。
「ディナーはどうする?」
ジョンは向かい側の椅子に腰を下ろして言った。
「そうね…」
本に栞を挟み顎に手を添えて考える。
ずっとルームサービスだった食事。流石にそれも飽きてきたところだ。
しかし守られているアリスの立場ではそれも言えず、ずっとルームサービスで済ませていた。
食事に関してシャーロックは関心がない。というよりも食事は考えることを鈍くさせるらしいのでいつも彼に時間を合わせていた。
ジョンはそれに慣れているのか何も言わず食事を済ませていた。2人とも食事に関心がないのか。
「B1Fフロアにはレストラン街がある、そこはどうだ?」
シャーロックの提案にジョンとアリスは目を丸くさせた。
「どうした?何か変なこと言ったか?」
「いえ、ただびっくりしちゃって」
「流石に僕も同じ食事は飽きる」
支度を始めるシャーロックに続いて慌ててジョンとアリスも支度を手早く済ませる。
ジャケットを羽織るアリスにシャーロックは近づき、鼻をヒクヒクさせた。
匂いを嗅ぐ行動に驚いているとシャーロックは顔を顰め、首を傾げた。
「君は海に行った」
「え…ええ、行ったわ」
「僕がそう言ったじゃないか」
ジョンが扉の取っ手に手をかけ、呆れた様子でそう言った。
「他の誰かに会った…」
確信めいた言葉にアリスは脳を巡らせた。
誰かに、会った――?ジム・モリアーティの顔を思い出し、「あ」と声を上げる。
「ええ、ジム・モリアーティに会ったわ」
「会ったってアリス…君はヤツがどんなに危険か身をもって知ってるじゃないか」
ジョンは大層驚いた様子だった。
確かに彼は危険な存在だ。それに変わりはない。
それでも警戒対象ではない。少なくとも今は。
「知ってるけれど彼は」
「――行こう。お腹が空いた」
シャーロックは遮るようにそう言ってアリスの腕を引いた。
部屋を出てふかふかの絨毯の廊下を進みエレベーターへと足を進めた。