hint and reasoning
「アリス…聞こえるか」
『ええ…聞こえる』
「すぐに…助ける」
シャーロックがそう言うとアリスは曖昧に微笑んだ。
『グレイ家の連鎖事件に比べたらつまらないだろうけど…』
お願い…探偵さん、とそっと囁くように続けたアリスは透き通るような綺麗な微笑みを浮かべた。
一瞬眉根を吊り上げた。彼女は何かを気にしている。
静かに目を見張ったシャーロックは「分かった」と微かに口角を柔らかく上げた。
アリスは視線を辺りに動かし観察しだした。
やはり賢い。やがて視線を動かしながらも独りでに語りだした。
『室内は城の中のダイニングルームと推測される…ただし窓には暗幕が掛けられてて外の様子は全く分からない。
ただ男が入って来たとき微かに雨の匂いがしたからこっちは現在降っているか、さっきまで降っていたか…』
場所は城のようなところ。昨夜から今朝まで雨が降った場所。
シャーロックの頭の中で巨大な地図が浮かび上がった。
iPhoneを取り出し掛け、止めた。
ロンドンも昨夜、そして今も雨が降っている。
「ほかに分かることはあるか?」
アリスは視線をあっちこっちに動かし、真剣な表情をした。
あらゆる五感を働かす様子のアリスにジョンは感心しているようだった。
とても冷静に状況を把握しようとしている。
『待って…違うわ』
考えるようにアリスは目を閉じた。
何が違うのだろう。見守っているとアリスは目を開き、口元を吊り上げた。
『ここ…お城に見せかけた廃工場かもしれない』
「お城に見せかけた廃工場?」
ジョンは首を傾げた。
「そう思うのはなぜ?」
アリスはハッとしたような顔になり「しっ」と言うと口を噤んだ。
どうやら奴らが室内に入って来たみたいだ。
シャーロックとジョンはそれ以上何も言わず口を閉ざした。
『30分経過した』
液晶画面の中の男がそう言うとナイフを取り出した。
鈍い光を帯びた刃先を見たアリスは体を固くして目をキュッと閉じた。
ジョンはそれからそっと逸らした。
『んっ…』
耐えるようなくぐもった声がマイクを通して聞こえる。シャーロックは目を離さずその様子を見つめていた。
赤い線を描くように傷つけられた彼女の腕。
ジョンが視線を画面に戻したときには“行為”は完了していた。
眼尻辺りに薄っすらと涙が溜っている。体格の良い男は興奮げに息を弾ませ、舌なめずりしていた。
細身の男が彼女に近づこうとした彼を押さえ、『まだ分からないのか?』と馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「さっさと画面から消え失せろ」
初めて聞くシャーロックの冷たい声にジョンは驚いた。
怒っている?彼が感情的になっている?
誰が――?あのシャーロック・ホームズが。
自分の聞き間違いだと思うことにした。
体格の良い男は感情的になりやすい性格のようで画面を破壊しそうな勢いで前へ進み出たが細身のそばかす男が止めた。
『ほら行くぞ』
『憶えてろよ。…ワインもう一瓶開けてもいいか?』
『開け過ぎだ。任務には支障ないように、ほどほどだぞ』
男たちの声がどんどん遠ざかる。
数秒してからアリスは口を開いた。
『さっき男が出て行く方の扉を見てたの。そこだけここの部屋の雰囲気と違ってたわ…
多分、ここの内装だけ城っぽく見えるようにしたのね』
「工場に見えたのか?」
シャーロックはいつも通りの口調に戻っていた。
『ええ、間違いない』
「廃工場…雨」
「特定するのはかなり難しいぞ」
ジョンがそう言うとアリスは眉根を下げた。
『ごめんなさい…一生懸命やってもそれしか分からないの』
「あ、いや…そんなつもりで言ったんじゃないんだ。君はよくやってる」
慌ててそう言ったがアリスの耳には届いていないようだ。
一生懸命、辺りを見回している。
「…傷は大丈夫なのか?」
ジョンは心配になってそう声を掛けた。
『平気よ…意外に大したことないの』
アリスは気楽そうに鉄製の椅子に座りなおした。
彼女が動く度に無機質な金属音が聞こえ、どんな状況にいるか分かる。
彼女は逞しい女なのかもしれない。
「工場の機械はどんな感じだった?」
シャーロックは静かな口調でそう聞いた。
『…錆びついた…ステンレスかしら…?身長よりも大きなタンクだったわ。
二メートルといったところ?』
「醸造用ステンレスタンクか…」
「でもステンレスって錆びにくいんじゃないのか?」
「グロースター州チェルトナム村」
シャーロックはそう言って立ち上がった。
「何だって?」
「時間がない」
シャーロックはコートを羽織り、パソコンを持ちながら出掛ける準備を手早く終わらせた。
慌ててジョンも準備を始める。
『え?分かったの?』
「すぐそっちに向かう」
シャーロックはそう言い、ジョンにパソコンを渡した。
パソコンが閉じられた。