愛憎が中途半端に残り、
「ユウキ…」
嫌だ。聞きたくない。そんな声で私を呼ばないで。
両耳を塞いだ。堪え切れず涙を流しそうになり、唇を噛んで耐えた。
ギシリ。スプリング音が聞こえ、息を漏らした。自分の唇から時折、掠れて洩れる甘い声。男が短く唸る声、互いの乱れた呼吸。
まるで燃え盛るラクーンの暗い街を命懸けで駆け抜けているような錯覚を覚える。それがとてつもなく怖い。両目を覆う大きな手を掴み、退けようとする。
無情にも彼は退けようとしない。彼が顔を見られたくないのは知っている。引っ掻くだけに終わり、ユウキはシーツを掴んだ。
彼の首や腰に抱き着くことだけは嫌だ。知っている。こんなこと無駄だって。子どもの悪あがきでしかないって。
波のように押し寄せては引く快感がしだいに導かれていくように高まっていく。さらに高くなりそうな声を辛うじて押さえた。
「っれ…」
名前を呼びそうになり、また堪えた。
何で。なんで、私だけがこんなに我慢しなくちゃいけないの。
心の中で泣き叫ぶ自分が自分を引き裂く。
「おやすみ」
気づけば行為は終わっていた。月明かりだけ。ユウキは目を開けて窓をじっと見つめた。月明かりだけがこの室内を照らしていた。
虚しさだけが降り積もる。きっとレオンだって同じだ。ユウキはレオンのそれには返さず、眠ったフリを突き通した。
寝返りを打つ気配を感じ、ユウキは瞬きをした。どれくらいそうしていただろう。数分、いや、ひょっとしたらもっと経ってたかもしれない。
隣から寝息が聞こえてきた。心臓も落ち着いてきた。ユウキはいつの間に添えていた手を自身の胸の辺りから離した。
気づけばそうだ。心臓の辺りを握っている。そこが痛むわけではない。違和感があるわけではない。ただただ、そうしていると落ち着くのだ。
*
瞬きをした。目の前には心配そうに覗き込むサクラギが腰を屈めて立っていた。
ああ…。ユウキは瞳を伏せた。また、か。また自分はこの症状を起こしてしまった。
記憶が一瞬、過去に戻ってしまう自分の精神的な、病気。
「ユウキ、大丈夫か?」
「うん…平気」
怪訝そうに見つめられ、何にもないことを示すために肩を竦めてみせた。
「そ。なら、いいんだけどね」
ギィ。サクラギは少し古いパイプ椅子に浅く腰掛けた。
スーツをしっかり着込んだ彼。前から思っていたが彼にスーツはあまり似合わない。不恰好だ。
職場のレディーたちは可愛いと騒ぎ立て、似合うと言っているがユウキはサクラギにスーツは似合わないと思っていた。
「スーツ似合わないね」
サクラギは肩眉を吊り上げ、意味もなくジャケットの皺を伸ばすように裾を引っ張った。
思わず笑いを零すと彼は咳払いをし、無言で視線を投げてきた。
怒らせたらしい。まあ、アジア人といえど彼の顔は悪くない部類に入ると思う。彼の魅力は顔ではなく、その身に纏う雰囲気だとユウキは思っている。
「ジャージの方が似合いそう」
「うん、ジャージの俺はモッテモテだからね」
さらり、とナルシスト発言を零し、サクラギは黒いファイルに視線を落とした。
思わず背中を伸ばして姿勢を良くする。
「外傷は擦り傷、少々と、左手に軽い火傷。それからー右肩を軽ーく痛めた。間違いないな?」
「はい、間違いないです」
チラリとこちらを見遣り、「よし」と小さくサクラギは呟いた。
「で身体検査で特に異常はなし、ということなんだけど」
「けど?」
サクラギは軽く頭を掻いた。
「脳波にちょっと異常が見つかった」
「異常?」
「うん、ほんのちょっと。大したことない。たぶんこれは精神的な面で起きた症状だって俺は思ってる」
精神面。ユウキはサクラギから視線を外した。
「…お前もさ、分かってるんだよね。思い当たること、あるでしょ」
確信めいた風に言うサクラギ。ああ、彼はさすがだ。
「どこかのヘリにレオンが乗ってた…」
ポツリ、と漏らした。確かにあれは彼だった。肉眼では見えなかったが感じた。
レオンがどこかにいた。注がれた視線の正体にユウキは気づいた。
「会いたい…って思った。でも会いたくない私も…いた」
サクラギは黙ってこちらを見るだけだった。
「サクラギさん…私、変だよ」
彼は黙って首を横に数回動かした。
「変じゃない。お前はそいつのこと、愛しているのと同時に憎んでるんだ。愛と憎は育まれていくものだ。そしてどっちかによって結末は変わる。2つが共存した状態でいるのは…」
サクラギはゆっくりと立ち上がった。カチリ、とノック式のボールペンが音を立てる。
大きな掌がポン、と頭に置かれた。
「しんどいよな」
その途端、堰を切ったように目頭が熱くなった。ぼろり、と何かが流れる。
安心感?不安は払拭されない。それでも何かが溢れて込み上げてくる。
嗚咽を漏らし、ユウキはサクラギに縋りつき、泣きじゃくった。