もう戻れないと言って

湿った空気の中2つの吐息が交じり合う音が木霊した。
ギシリ、と軋むベッド。月光だけで照らされた青白い無機質な部屋。
女は体を仰け反らせ細い呼吸を喘ぐように吐き出した。男は眉間に皺を寄せたままただひたすら女を掻き抱く。
2人は互いを見つめるが口付けようとはしなかった。
一度も口付けは交わしてなかった。毎晩毎晩、男は寂しさとトラウマを埋める為に女を求める。
女は自分の恐怖を覆い隠す為に――ただ求められるがままに身を任せていた。

*

――ピピピ,ピピピ

電子音にユウキは目を覚ました。バン、と時計を叩き天井を見上げた。隣りを見遣り、息をつく。
誰もいないシーツの上を指先でなぞった。確かに残った温もり。
彼はきっと政府機関の訓練へ出かけて行ったのだ。ユウキは倦怠感に目を閉じた。
食事を食べてもいい時間だがあの事件から何も口に入らない。無理やり入れてもすぐに吐き出してしまう。
ユウキは髪を掻き上げて起き上がりベッドの上でしばらく座り込んでいた。クレアはクリスを探しに行ってしまい、シェリーは政府に管理されている。
そして自分は――意外にもあっさりと解放された。ただしエージェントとなるレオン・ケネディの監視下の下にそれは成立している。

「こんにちは、ユウキさん」

ハッと顔を上げればメガネを掛けたブロンドの女がファイルに何か書き込みながら言った。
ファイル――カルテへ視線を向ければ女はそれを閉じてしまう。

「また記憶が飛んだのかしら」

そうだ、もう朝じゃないのだ。時計はきっかり15時を指している。

「そうみたいです」

ユウキは努めてそう明るく答えた。もうこんなのは何度かあったことだ。
意識が過去の記憶に戻り体が今の時間で生きていないのだ。
つまり意識が遠くなり失ってしまうことと同じだということ。カウンセラーも精神科医もお手上げで今ではセラピストにお世話になっている。

「今日はどこまで飛んだの?」

「多分、今朝までかと」

頭のどこかが可笑しい人扱い。大学にだって行かせてくれない。
私はどこも悪くないのに、と言い張っても無駄であることは分かっているためユウキはこの“お医者さんごっこ”と付き合っている。
そしてそれが楽しいと思い込もうとしていた。当初レオンは政府へ反対したらしい。
その“お医者さんごっこ”つまり政府が行っている診察こそが彼女を良くない方向へと誘っていると。
どうせ自分もレオンもどこか可笑しいのだ。愛しもしていない癖して毎晩“行為”をするのだから。
勿論それは2人だけの秘密だ。そして今のどこが可笑しいのかというとレオンもユウキもまるで生きていないから。
いや、生きている。自分たちは自分たちで闘っている。
まるで体験した地獄が存在していなかったように振る舞い、気が狂いそうな程の質量を持った恐怖と孤独と闘っている。

「貴方、私の名前わかる?」

「マリーさん」

「ソフィアよ」

「そうでしたっけ」

セラピストは溜息をつき、カルテに何かを記入した。

「最近あった楽しいことは?それを思い出してみましょう」

「今こうしてソフィアさんと話していることです」

「本当のことを言って」

「本当です」

肩を竦めて言えばセラピストは首を横に振った。

「今日はここのところで帰るわね。次までに楽しかったこと考えておくこと」

「はい」

彼女が帰るとユウキは水だけでもと躊躇いながら台所へと向かった。
台所は入るだけでも勇気のいるスペースだ。思い出させるものが幾つも障害のようにあるから。
いい加減前進しなければいけない。勇気を振り絞り確実にキッチンへと踏み出していく。
しかし視界に入った包丁でゾクリと恐怖が鎌をもたげ、ヌルッとした感触と鼻腔を刺激した鉄のような生臭い匂いをリアルに思い出してしまった。
思わずテーブルの淵に手をつき、皿を落としてしまう。ガシャン、と大きな音が響きさらに体が冷たくなっていく。
体から力が抜け、ユウキはそのまま床に座り込んだ。

「ただいま…ユウキ…!?」

ああ、レオンだ。彼が帰ってきた。ユウキは酷い安心感に襲われた。
レオンはそのまま急ぎ足でやって来るとユウキを抱き寄せた。

「キッチンに入ろうとしたのか?」

「うん…レオンが前に進んでいるのに私全然…」

抱き寄せられた腕がさらにしっかりとユウキを抱き込んだ。

「ゆっくりでいい。ゆっくりでいいんだ。無理だけはするな。君が望むなら国が送り込んだセラピストだって」

「大丈夫、私ちゃんとやる。少なくともシェリーは…やってる」

だから甘やかさないで、という言葉は呑み込んだ。
それを口にすればレオンが傷つくくらいわかっていたから。








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