ターコイズの愛みたく T
貴方の瞳には、何が映っていますか?
愛? それとも悲しみ?
貴方はたくさんの出会いと別れに立ち合い、そして見届けてきたね。
振り向かず真っすぐ前を見る目、決意を宿したその双眸は、あなたの生き様のよう。
そう。
リヴァイ兵長、貴方はまるで、ターコイズのような人。
――――――――――
“ねえ、ターコイズって知ってる?”
いつだったろう。
まだ春特有の暖かく、そして眠気を誘う空気。しかし着実に季節が夏へと、歩み始めた頃だったか。
兎に角リヴァイの命令で、ハンジの研究室の整理を手伝っていた時だったと、シェリアは記憶している。
休むことなく手を動かすシェリアを余所に、ハンジは呑気に椅子の背にもたれて、グっと背筋を伸ばしながら聞いてきた。
聞き慣れないその単語に、彼女は一瞬掃除の手を止めるも、このままハンジの話に付き合っていては、いつまでも部屋が片付かないと、山積みになっている本の山に手をかける。
「宝石の1つらしいんだけどさ」
相変わらずのマイペースぶりだ。
シェリアが話に乗ってこなくとも、ハンジは先日自分が宝石商の男から聞かされた話を、特に興味があるようにも見えない顔で話し始めた。
晴れ渡る空の碧色で、宝飾品にもよく使われている石。
碧─────
この言葉にシェリアは忙しく動かしていた手を止め、初めて興味を示した顔をハンジに向ける。
一つだけ気になる“石”があった。
それが宝石なのか何なのか分からないが、たった一度、目に触れた碧色をしたそれは、シェリアの心に入り込み、記憶のどこかに紛れ込んでいたようで。
偶然とはいえハンジの言葉に、時を待つように潜んでいた記憶は、シェリアを再び囚えていった。
気になってきた? と、ハンジは含んだ笑みをシェリアに向け、自分の隣の椅子を引き、座るようにトントンと指で座面を軽く叩く。
今思うとハンジのその笑みは、近く訪れる“ある日”を予感してのものだったのかもしれない。
可愛い後輩と、不器用な友人。
二人の距離を縮めるための、もどかしくも、大切な第一歩。
そのきっかけを、やっと作ってあげられると、ハンジはゆっくりと語っていく。
「今も言ったけど、綺麗な碧でね。で、その石は王都でとても流行っているんだって」
「色が綺麗だから、ですか?」
「いやいや、護り石の意味もあるとかで、特に兵士を恋人に持つ女性に、人気があるんだってさ」
「護り石…ですか」
片付けの手を止めただけで、結局は椅子に座らず、ハンジの横で考え込むような仕草を見せるシェリア。ハンジはそうそうと頷きつつも、すぐにでも作業を再開しそうな彼女に、真面目だなぁと苦笑してみせた。
「興味ある?」
下からシェリアを覗きこめば、真剣な彼女の顔があり、ハンジは確実に最低限の目的は達成したものと判断する。
よしよしと頷くも、ハテとハンジは、折角彼女が興味を持ってくれた石について、宝石商から聞いたいくつかの話を、忘れてしまったことに気付いた。
シェリアの瞳が、明らかに続きを欲している。
しかし、記憶のどの扉を開けても、肝心な場所に辿り着くことはできない。
「ごめん、シェリア! 他にも何か、色々聞いたんだけど、思い出せない。忘れちゃった…」
「ここからが肝心だったんじゃないんですか?」
「いや、そうなんだけどさ。ごめんって。そんなふくれっ面したら、可愛い顔が台無しだから、ね?」
興味を持たされるだけ持たされ、期待を落とされてしまったシェリアは、落胆しながら作業に戻ろうと、乱雑に本が差し込まれた棚に手を伸ばす。
大体にして、なぜそのターコイズなるものの話をしたのか。
彼女の話はいつも突然であるため、意味を持つことがないことも多い。しかし、今回は自分が知りたかったことであろう話だったため、どうしてもその続きが聞きたくてたまらなかった。
調べるしかない。
時間を見つけて、書庫にでも行ってみようと、黙々と作業をシェリアは再開するのだった。
(まあ、興味は持ってくれたみたいだから、良しとするか)
落胆は勿論、少々機嫌を損ねてしまった彼女の背中を見つつ、それでも目的は達したと、ハンジは満足げに一人頷いた。
そこからハンジの興味は別のところに移ったらしく、シェリアが棚の整理を終えたら、次に手をつけようと思っていた執務机に、散乱する書類をひっくり返して、彼女は何やら探し始める。
ゴソゴソ、
バサバサバサ─────。
かろうじて雪崩れてなかった書類たちが、ハンジの無遠慮に漁る手で、床に散らばっていき、シェリアは手にしていた本を眉間にあて、また仕事が増えたと頭を痛めた。
「もう…、いつまでも片付かないじゃないですか。またリヴァイ兵長に、戻りが遅いってどやされちゃいます」
ここを片付けて来いと言ったのは、上官のリヴァイだ。だからと言って、長時間入り浸ってきて良いという意味ではない。
彼も執務をするのに、シェリアの手が必要なわけで。
しかし、自分が出入りするハンジの研究室が、あまりにも人の生息する環境ではないと、定期的にシェリアを掃除させに寄こすのだ。
手際良く整頓したら、すぐに戻らなくてはならず、その予定の時間も随分と過ぎてしまっている。
今日はまだ書類の処理も残っており、朝チラリと確認しただけでも徹夜レベルだった。今頃リヴァイは、一人眉間に皺を寄せつつ、黙々と処理しているのだろう。
(戻る時、紅茶を淹れていこう)
機嫌の悪い彼が嫌ということではない。むしろそこは気にならない。
ただ、イライラしたままだと非常に仕事の効率も悪いわけで、自分以外の兵士が彼を尋ねて来室した際に、委縮してしまうのが目に見えていて。
「おい、シェリアはいるか?」
思考も手も、絶賛総動員中のシェリアの耳に、本来なら最もその手腕を発揮したい相手、リヴァイの声が、扉が開くと同時に届く。
「兵長!」
パッと振返ったシェリアの顔が、分かりやすいほど嬉しそうに輝いた。
まるで飼い主を見つけた時の犬のように、ピンと立った耳と、ブンブン千切れるほどに振り回す尻尾が見えるようだ。
間違いなくシェリアは忠犬だ。しかも、リヴァイにしか懐かない、可愛らしい小型犬。
リヴァイも自分を怖がらずに、屈託ない笑みを見せる彼女がお気に入りらしく、扉を開けた瞬間は、凶悪な視線をハンジに向けていたのだが、それもなかったかのように和らいでいく。
「今日は一段と汚ねぇな、ハンジよ。うちのシェリアがおかしな病気にでもなったら、どうしてくれる」
「そんなに汚い? これでも随分綺麗になったんだけど」
シェリアのおかげでね、と付け足すと、リヴァイの和らいだばかりの顔は、一気に固まり、ハンジを汚いものでも見るかのような目に変わっていった。どうしたら、ここまで物が散乱し、得体の知れない物体を、そばに置いておくことができるのか。
自分が命じたのだから仕方ないと思いつつ、ここで作業をしていたシェリアを、一度風呂に突っ込んでから、執務室に連れ戻す必要があるのではとさえ思うほど。
よく見たら彼女の顔は、心なしか煤けている。リヴァイは小さく溜息をつき、棚の前でニコニコと自分に笑顔を向けているシェリアへと歩みより、真っ白なハンカチをポケットから出して、拭けとばかりに手渡した。
「あとで、顔を洗ってきますから、大丈夫です」
「俺が気になる。頬が汚れてるじゃねぇか」
「や、でも、ハンカチが…」
汚してしまうから受け取れないと、首を振る彼女に痺れを切らせたリヴァイは、問答無用でシェリアの頭を抑えつけ、煤けた頬をゴシゴシと拭きとっていく。
「お―い。きみたちイチャつくなら、別な所でやっておくれよ」
仕事の邪魔だから早く出ていけと、ハンジは手をヒラヒラさせ、ニヤニヤした視線を向けると、その意味に気付いたリヴァイは、フンっと鼻を鳴らして、顔を真っ赤にしているシェリアを引っ張り、執務室へと戻っていった。
「甘酸っぱすぎなんだって、もう…」
リヴァイとシェリア。
最初は信頼できる部下と、尊敬する上官だけの関係だった。しかし、二人が共に潜り抜けてきた長い時間は、向けていた気持ちを、ハンジにでさえ気づかれるほど、特別なものへと変えていく。
早く素直になればいいのに。
しかし、リヴァイの立場と、それを理解するシェリアの心が、未だ上司と部下としての関係を、越えさせないでいる。
「早く、くっついちゃってよね。みんな、そう思ってるんだからさ」
誰も彼らが恋人同士になったからといって、文句を言う人間などいない。
だから、少しでもきっかけがあればと、宝石商から聞いたターコイズの話を彼女にした。
ターコイズはね、きっと、きみたちのためにある石だよ。
自分のささやかなお節介が、どんな結果を生むかはわからない。
しかし、少しでも二人の距離が近づけばと、ハンジは願わずにはいられなかった。
そんな初夏の一日。
――――――――――――
あの日から、シェリアはターコイズのことが気にかかり、暇をみては書庫へと赴くようになった。
それだけではない。
調整日となれば街の雑貨屋を覗き、ターコイズとはどのようなものかと、探し求める時間が増えていった。
ターコイズ自体は簡単に見つかった。
やはりシェリアが一度目にしたことのある石だったようだが、微妙に色合いが異なり、記憶にある同じ碧が見つからない。
ハンジが宝石商から聞いたというのだから、自分もそうすれば一番早いのは分かっていたが、さすがに敷居が高すぎて足を踏み入れられない。そうとなれば、できる範囲で調べるしかないと、髪飾りやペンダントなどを扱っている場所に行くしかないのだ。
では書庫では何をしているのか。
それはハンジが言っていた“色々”というやつを調べるため。
ターコイズには、護り石としての意味もあると言っていた。そして忘れてしまった宝石商の話があるということから、きっとこの石には、まだ他の意味があるのだとシェリアは考えて、書庫に入り浸りになっていく。
ターコイズの存在を知らされてから、季節は巡ってもう秋も半ば。日によっては肌に感じる風も、随分と冷たくなってきた。
書庫は紙が変色し、痛まないようにと、太陽の光が遮られ、薄暗く空気もひんやりとしている。廊下はまだ暖かいが、書庫に足を踏み入れた途端、季節が一歩先に進んでしまっているのではと、勘違いしてしまいそうだ。
時間を見つけては、何度も足を運び、膨大な書物の中から、やっと見つけたそれらしき本を、慎重に捲っていく。
どこから集められたのかはわからないが、ここには随分と古い書物も保管されており、シェリアが手にしたものも、その部類に入るのか、所々背表紙が綻びを見せていた。
捲るごとに埃臭く、紙特有の匂いが鼻をつく。
「あ、あった!」
どうやら目当ての内容が、記述されていそうな箇所に辿り着いたその時。
「ほう、それは宝石の書物か」
「うわぁ! びっくりした…。兵長、驚かさないで下さいよ」
突然の背後からの声に、シェリアは盛大に叫び声をあげ、手にしていた本を床に落としてしまった。
まさかこんなにも彼女が驚くと思っていなかったリヴァイは、すまないと言いつつも、苦笑してその本を拾い上げる。
それにしても珍しい。
こんな書庫に足を運ぶ人間は少ない。
ここに収められているのは、流行りの恋愛や冒険活劇のような小説はない。
多くの人間が、かつては学び舎で退屈しながら教わる、学事の延長上のようなものばかり。
リヴァイの場合は、エルヴィンに付き添う社交上で必要な知識のため、こうして時折書物を漁っている。
地下街出身のリヴァイにとって、教養は無縁のもの。
しかし、人前にでる機会の多くなったことで、否が応でも身につけなければならなくなったわけだが、大体の兵士には必要のないものだ。
だから、ここに足を運ぶのはごく一部で、まさかシェリアが熱心に書庫通いをしていると知った時には、正直驚いた。
しかも、失礼とは思いつつ、彼女が宝石に興味を持つとも思えなかったのに、その手の書物を開いていたのだから、興味を惹かれ、つい驚かせてしまった。
各言うシェリアは、書物を受け取り、再び開くかどうか少しだけ迷ったものの、何となくリヴァイがいる中で、ターコイズについて調べるのも照れくさくなり、元の位置にそれを差し込んだ。
やっと見つけた目当ての本。
場所さえ覚えておけば、すぐにでも取り出すことができると、シェリアは今ここで読むのを諦め、何食わぬ顔で、書庫を後にしようとする。
「何だ、見ていかないのか? なんなら、持ち出しの許可を出そうか」
「いえっ!! 大丈夫です!!!」
自分が近づいても気づかないほど、夢中になっていたのだから、余程だろう。
リヴァイはそう気を回すのだが、当の本人は声を上ずらせ、失礼しましたと、一目散に書庫から飛び出して行ってしまった。
何をそんなに慌てる必要があるのか。
訝しげな顔をするリヴァイは、シェリアが手にしていた書物を抜き取り、パラリとページを開いてみる。
長く開かれることがなかったのか、それとも誰の手にも触れることがなかったのか。その書物には、シェリアが開いていたと思われるページの背の部分にだけ、少し跡がついていた。
彼女が調べようとしていたことに、興味をそそられたリヴァイは、当然そのページを開くわけで。
「ターコイズ?
ほう…、あいつ、こんなものに興味があるのか」
リヴァイも耳にしたことはある。
確か碧色をした石だったはずと、会議で王都に赴いた際に、貴婦人たちの話題に上がっていたことを思い出す。
護り石として兵士に贈られることが多く、リヴァイも彼を気に入っている貴婦人達から、贈られたことが幾度かあった。
親しいわけでもない。しかし資金を調達するための、謂わば金蔓である彼女たちの機嫌を損ねるわけにもいかない。上辺だけの感謝を述べ、その後はエルヴィンに手渡し、秘密裏に処分してもらうことも屡。
たかが石に何の力があると、鼻で笑っていたが、好意を寄せるシェリアが、興味を持っているとなれば話は別。読み進めていけば、そこには惹かれる一文が載っていた。
“透明感があり、愛ある溢れんばかりの眼差しは、周囲を安心させていく”
「アイツのことじゃねぇか」
ポツリと零したリヴァイの口元は、自然と弧を描き、先ほど彼女が出て行った扉の先の、小さな背中を思い浮かべるのだった。
back