その日はやけに頭が痛い日だった。二日酔い、と思うには事足りず、頭を締めつけられるような痛みが間隔を置いて来るというものだから質が悪い。時刻は既に次の日に回ろうとせん程で、長針短針はあと少しで同じ方向を示そうとしている。
ほどなくして私はすっかり慣れた万年床から起き上がると周りを一通りだが見回した。住み慣れたこの部屋を今日でお別れか、と思うと少しばかり後悔やら、名残惜しいものでもあるがこの古ぼけた安アパートには何の未練もないと思いたい所だ。なにせ隣との壁が薄く住人の生活音が聞こえてくるものだからプライベートもへったくれも何もありはしない。しかし今日も左の家から聞こえてくる、トントンという調子のいい包丁がまな板を叩く音は案外心地のよいものだった。


 身辺を整理して、結局自分に残ったものは大きめなトートバッグ一つ分のみ。とも言ってもとりとめのないものが入っているばかりだ。数え切れない程の思い出もあるわけでもなくただ日常における並一通りの感情と記憶が数年間分募るのみだと考えて貰いたい。ただ一人親しい友人がいたような気もしたが、決心した私にとってはもうどうでもよいものになった。


 ピー、という電子的な長音が予め受け取っていた機械から鳴る。筆記体で品よく《VARIA》と書かれたボックス調の時計だ。
途端、季節に似合った北風が温められた部屋に立ち込める。冷気の方向へそっと振り返った。





「○月×日、午前0:00:02、現場到着、誤差±2秒」




「‥そんなことまで報告するんだ、ボンゴレって、細かいね」



「時間が命の仕事だし」




可愛らしいセニョリータ、暗躍する人間とは似つかわしくない真っ白い手のひらがこちらに向かって差し出される。




「イタリアまでのフライト。ああこれチケットな、ここから現地までの道のりはオレが同行するからその積もりで」




「‥うちは同盟ファミリーに頼らないといけない程人材に困窮してるんだねえ」




「今二派に分けて大規模なクーデター中だから、身内は信用ならねーんだろ。きっと」




「私は直系支持派に利用されるんだろうね」




「‥そんなに利用されんのが嫌なら、ぜーんぶ壊しちまえばいいのに」




うんざりとした口調で呟く。仮にも中立である同盟ファミリーがそんな事をほのめかしていいのか。この男は。前髪のせいか表情を読み取ることがままならないが、何となく、彼は今の状況を客観的に楽しんでいるのだろうということはわかった。




「仮にも直系支持派の象徴にそんな事言ってもいい訳?」




「だってお前自身には決定権ねーじゃん」




これは真実だ。私は後継者にして後継者に非ず、もしこの内戦で私を支持した人間たちが勝てば、私は間違いなく傀儡になってしまうのが落ちだろう。




「私が頑張って独裁してやるってなったら、巻き込んでやるからね」




「いーよ、無問題」




「‥‥本気?」




「結構これでもオレ使えるぜ?」




「あんたきっと口説き上手の女の子泣かせだー」




「まあ、そこそこ?」





そう言うと、ベルと名乗る男は私の腰回りを掴んで笑った。安心する。なんてそんな少女漫画のような展開ではないのが残念だ。彼の笑みは酷く冷たく、鋭い。




「お前野心家だろ、女の癖に、」




「直系支持派の現リーダーの首ぶん取って、一人でやっていきたいなあと。その為に私ジャッポーネに居たんだから」




「怖っ、どこのザンザス様だよ」


「‥その時はベルが巻き込まれてくれるんでしょ?」




そう言うと、少し意外そうにしていたけれども、ベランダに足を掛け、飛び下りるベルは何だかとても嬉しそうだ。




「ボスになったら、いっぱい雇い賃払ってあげる」







「あー楽しみ」








20100201