「待たせたか」
「うん、だいぶねー」
「‥‥すまん」


私は可愛げの無い人間だと自分でも自覚している。だから、待たせたか、と言われて嘘を吐いたり、女の子らしく高い声で振る舞うなどもってのほかだ。
石田君は私に向かって申し訳なさげな仕草をみせたが、実際私が謝らなければならないほうだ。せっかくの休みを、特に明日からテストだというのに、わたしに裂かなければならない時間の浪費や、そしてわざわざ図書館に呼び出した手間を。


「刑‥、いや私の不注意だ。――寝坊をした」
「あら、嘘だ寝坊なんて。大谷君、わたしがテストで間に合わない不幸がみたいって言ってたからまさか、」
「刑部を悪く言うな」
「ごめん」


友達思いの石田君は大谷くんが自分になにをしたかは言わない。大方携帯の目覚ましを止められていたか、大谷くんの内容のない電話か、はたまた直接訪問からの長居か。
それを怒らずにいる、石田君の堪忍袋の緒のつよさは工事現場のザイルか、ザイルなのか。
実のところ、彼の怒りの沸点は低いとばかり思っていたのに、彼を知れば知るほどどんどん違う人間に見えてくる。本当に大切な人には自分を犠牲にしてまで尽くすところ、人思いな一面があるところ、照れが顔に表れやすいこと、‥‥。


「明日の日曜日は総まとめとして全科目の復習に当てたい。だから今日で英語は終わらせる」

「えっこの量‥」
「不満か」
「イイエ」
「なら良い。」


尖ったシャープペンシル顔に向けられながら脅されたら、それは誰だって頷くしかない。
指定されたページを捲り、問題に取り組むことにした。幸い英語の教科書に準拠したものがテストに出されるということで範囲は広いがヤマは当たりやすいとのことだ。(石田君談)流石学年上位である。ご丁寧に丸された問題だけを解き進めて、出来たら石田君に渡し纏めてあとで解説というパターンで固定された。


「これは三行目の定型を当てはめればいい、次はSVOを振り当てて、後は訳。」
「momentが分かりません」
「高一からやり直せ。いっそ初等教育から受け直して頭を作り替えろ」
「なにそれひどい」
「口より手を動かせ」


早口で目も合わさずに、シャープペンを動かす音だけが響いていく。私も赤字添削だらけのノートを片方に置きながら、先へ先へと解き進めると、ふと、思った。この懇切丁寧な赤字がなぜこうもいとしく見えるのか。私のことだけを考えて、(勿論、石田君がそんな単調な脳のつくりではないとわかってはいるが)この紙に字を書いた事実が、なぜこうも私をかき立てるのか。
(‥やめて)
止めてほしい、と思った。わがままなのもわかっている。
(嗚呼止めて)
私の中に入る石田君が、コーヒーを零したあとの染みのようにじわじわと私の心を蝕む。
(きっと君はわかってないでしょう)
私がこんな邪な気持ちを抱くのはなぜか。石田君をいとしく思う気持ちのせいなのか。それは石田君の一挙一動から私が勝手に汲み取っているものなのに。勘違いも甚だしい。気持ちが悪い。


「おい」
「‥‥ん、と、なに?」
「具合でも悪いのか」
「ううん、違うよ。大丈夫」
「顔色が悪い」


がたん、と椅子が動いたかと思うと、目の前に石田君の顔が、一杯に広がった。大きな手のひらが額に僅かに触れる。暫くして気難しい顔をしてから、石田君はもう片方の手を自分の額に当てた。


「熱だ」
「え、うそ、」
「下らない嘘を誰が吐くか。――帰るぞ」
「いやでも、テストが」
「貴様が其処までテストに気をかける質か」
「‥‥‥‥‥‥ああ」


嘘をついた。今。
こんなにすんなりと。


「‥‥‥‥」
「‥それに、テスト範囲なら終わった」
「う、嘘だあ!だってまだこんなにページが」
「‥‥‥‥‥予習だ」
「まじで?え?まじ?」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」


なんだ、関係のない場所をやらされていたのか。道理で途中から訳の分からない文章に見えてきたわけだ!!石田君め、私の頭の出来の悪さを全くわかってない!


「帰るぞ」
「あ‥うん」
「明日1日休んでも、英語“は”間に合う」
「‥‥日本史に古典が‥」
「知らん」
「ひどっ」
「道理に合わん」
「‥だるっ」


「‥体が辛いのか」
「ん?なにが、」
「早く言え!」
「そんな訳じゃあ、ちょ‥っ!!」


石田君が とんでもない 勘違いを はじめた!

私はただ勉強に対してだるいと言っただけだ。それを何を間違えたのか彼には体がだるい、と聞こえたらしい。つかつかと早足で近づいてきたかと思うと、いきなり私を担ぎ上げた。
――いや待って、待ってお願い!!!!!
スカートだからとかそういうことじゃなく、単純に待て!少女漫画か!俵担ぎじゃなきゃあ完全に薔薇やら百合が画面に目一杯咲き誇る!やだキラキラしちゃう!


「いっ、石田君!降ろして降ろして!」
「黙れ煩い喋るな」
「わあ言論の無視」
「‥‥」


ああ、今日が休みの日で、休館日で本当に良かった。



* * *




「‥‥それは卿が羞恥プレイを私の妹にけしかけた理由にはならんなあ」
「羞恥プレイ‥」
「そのような煩悩にまみれた行為ではない!貴様の妹が体調不良だったから抱きかかえた迄だ」
「柔らかかったろう?ん?」
「はったおすぞバカ秀それでも兄か、兄なのか心配くらいしろ頼むから」


玄関先で私の帰りを体育座りをして待ち受けていた久秀兄さんが、あの俵担ぎを見るなり随分偉そうな態度でたてつき始めた。うざい。
そして私は勿論具合など悪いはずがないので、ここにいることが気まずくて気まずくて堪らない。石田君へのお礼をそこそこに階段へと向かう。


「おい」
「?」
「あっ明日、また来る」
「‥ほう」


扉の音にかき消されそうなほど小さな声で発せられた、信じられないような台詞は、たしかに私に届いていた。


「青い春じゃないかね、実にむずかゆい」


20120818