「ノリントンさんつかまえた!」


「!」



後ろからいきなり小さなもの、基いベケット卿の婚約者、が飛びついてきたせいで思わず持っていた花瓶を割ってしまう所だったのをどうにか耐え、しっかりと掴んだ代わりに、着ていた服の腹の辺りに水が掛かる。そう、それがまだ私だけなら良かったのだが。



「つめたっ」



僅かばかりだが、振り向いた際に飛んだ水が彼女の服に掛かる。丁度胸の辺りから腹にかけて少し大きめな染みが出来てしまっていた。それを見て、彼女は暫く考え込み、そしていきなり――、服を、脱ぎ出した。



「あ?っちょっと?!」


「ふっ、‥服を脱がなくても大丈夫です」



裾に掛かった手を半ば強引に掴み上げすたすたと外に向かって歩き出す。今日はお誂え向きに晴天だ。寧ろ暑い程に照り輝く太陽の元に出ると、長い間屋内にいたせいだろうか目が眩む。彼女もそれは同じだったようで、目を細めて、幾度か瞬きを繰り返してから、私の意図した通り、一番日のよく当たる場所に立って濡れた部分を翳す。



「ノリントンさんて頭いいですね」


間延びした声が聞こえる。この人が本当にあのしたたかなベケット卿の婚約者なのか、思わずこの抜けた様子に疑ってしまう程だったが、実際そう紹介されたのだから、それはそうなのだ。



「服を脱いでどうする積もりだったんです、ベケット夫人」


「あのね、布でとんとんって叩くと水分が抜けるの」


「‥、」



脱がないと叩きにくいでしょ。と、にこにこと無邪気に笑いながら日の光を浴びる。納得し難くも、無理矢理彼女の持論を飲み込み持ち放していた花瓶を下に置くと近場の椅子に腰を下ろした。今日は何時間振りに座れただろうか、足がじんじんと痺れてきたのでそれを揉みほぐしていると、興味深そうに近づいてくる。



「‥痛い?」


「いえ」


「でも、余りお顔色が優れてないわ」



そう言ったかと思うと、私の額に滲んだ汗を持っていたハンカチで拭ってきた。一瞬何が起きたのか理解出来ずにいると、動かないようにする為か頭を抱え込まれるようにして首筋やらを拭いてくれる。‥のは、大変有り難いのだが。見られれば確実に誤解を招きそうな体勢だ。この言葉に語弊も実は余り無く胸が、彼女が動く度に触れていても気まずい。何の気なしにして貰えるのは良いが、これは余りにも、一言でいえばまずい。




「‥汗、出てましたけど大丈夫ですか?」



「え、ええ」


「そう、なら良かった」



すっと離れて、もうすっかり乾いた服を軽く触る。



「もう乾いたわ」


「今日は良く晴れてますからね、」


「‥この花、ノリントンさんがいつも水替えして下さってるの?」



指を差した先はあの花瓶。それには紫色の珍しいチューリップが生けられている。彼女がここに来る度にベケット卿の書斎に生けていくものだ。彼は花や、兎に角利益にならないものは余り眼中には無いらしく、一度目を留めた時も只この色に魅せられただけで、この花を毎回生けていくのは自分の婚約者だということは知らない。もしかすると、彼女が生けていると知れば少しは愛着が湧くのだろうかと、前回枯れかけたチューリップを見せながら言ってはみたが。



「彼女が好きにやっている事だ」




と、あしらわれた。それ以来毎日花の水を換えるようにしているとはとても言えないので、偶々だと告げると少しがっかりした様子だった。彼女が少なからずこの花に込めている思いは、ベケット卿へ向けてなのだが、彼は気づかない、そしてこれからも気づくことは無いだろう。



「‥ねえ、」


「はい?」


「私が、ノリントンさんのお嫁さんになったらどうなってたかしらね、」


「ベケット卿に失礼ですよ」


「私、優しい人が好きよ、‥カトラーが優しくない訳じゃないけど、でも」




そう言って遠くを眺めた彼女の顔の儚いことだ、どうやら何らかの圧力のかかった婚約らしい。珍しくはない。只彼女が余りにも尽くしていたので、そうは見えなかったのだ。それも、ベケット卿に恥をかかせるまいとする振る舞いであることに気付くにはそう時間は要らない。




「その花、大切にして」


「え?」


「‥約束よ?」







それ以来、彼女はぱったりと姿を見せなくなった。
―――もしも、だ。時折思うことがある。彼女のあの花の真意はもっと他にあったのではないかと、そう、ベケット卿に向けてではなく、だ。
約束、そう言った彼女の声を今でも鮮明に覚えている。


20100524

時さまへ
リクエスト本当に有難うございました!

紫のチューリップ:私は愛に燃える