「うあ、気持ち悪い」
あいつがいきなりそう言い放ったかと思うと、酷い嘔吐感のせいか口を抑えながら、すぐさまデスクから立ち上がり古びた扉に向かって一目散に駆けてゆく。その一部始終を何となく眺めたあと、やりかけの書類に目を戻すと、いつの間にやら社員全員が俺の周りを囲むようにして立っていた。暗えじゃねえかどけ、と早口で言うが、一切反応がない。気味が悪くなり俺自身も黙ると、言いづらそうに豪田が口を開いた。
「‥社長よお」
「あん?」
「‥‥妊娠させたろ」
「馬鹿言え」
予想外の言葉にすぐに返答した。こういうときは間を置けば置くだけ自分が不利になる。身に覚えもないことで乏しめられるのは性にあわない。豪田と吾代がまだ疑わしい目で俺を見つけている、他の奴らもそうだ。
「昨日は、したんすか」
速水が顔を赤くして問う。
「‥‥した」
「今までは、ゴムは有りで?無しで?」
と、鷲尾。あ、こいつ自分で言っておいて後悔してやがる。
「毎回着けてる」
「でも百パー安全とは言わないし‥」
西村、お前は俺の味方だと思ってたのに裏切るのか。段々と俺が妊娠をさせたという方向に話が進まり始めた。これからの仕事はどうするか、とか、取り立て範囲の割り振りやデスクワークなどなど、あいつしか出来ないきめ細かな仕事も関与先もある。
「‥どうしてこの忙しい時に‥‥」
「鷲尾しばくぞ、‥俺は、覚えもねえ」
「どーせ社長の事だから酔った勢いで覚えもないとかじゃねえの」
「吾代、喜べ給料減らしてやる」
「はあ?!」
むしろ一番困っているのは俺の方だ。どうする、妊娠だぞ、あいつのガキなら当たり前だが俺のガキにもなる。血が繋がった、そんなもの無理に決まっている。こんな環境で、状態でまともな奴が育つ訳もねえ。いや、待てよ、俺の中でも妊娠だって決まりかけていたが、もしかしたら只吐き気があるだけかも知れない。
「昨日の酢豚だ。吾代は昨日俺と夕飯食ったろ、あれがもたれたと」
「‥あいつそんなに胃弱くねーっすよ、」
俺もそう思う。じゃあ何かやっぱり妊娠なのか。嬉しくない訳はない、基本的には嬉しい。凄惨な家庭で育ったこの身の上としては、綺麗で暖かな家庭に憧れていた。けれど今の俺にはそれは作れない、仕事上綺麗だなんてのは不可能だからだ。
「そういや最近、やたら蜜柑とか小夏とか食いますよね」
豪田がぽつりと呟いたその一言で更に明確になった。妊婦は酸っぱいものを好むと良く言われる、それから悪阻。
「‥あいつの所に行ってやったらどうですかね」
「‥鷲尾、」
「後は本人達の意志って奴かあ、社長」
「速水、お前は偉そうだな」
「ほら行った行った」
吾代に無理矢理背中を押され、事務所の扉が閉まる。この階の共同トイレまでの廊下をのろのろと歩くと、少しだけ扉を開け隙間から彼女を覗き見た。水道の水を口に含み、濯いでいながら、目に涙が溜まっている。俺は卒然、自分でも良く理解出来なかったが扉を勢い良く開けて彼女を抱き締めた。びくり、と体が大きく跳ねる。
「っく、くには、‥」
「大丈夫か」
「ちょっとだけ、吐いて、それだけだから」
「‥本当にそれだけか?」
「え‥?」
「理由分かってんだろ」
自分でも可笑しい程に声が震えているのが分かる。同じ暗い弱々しく震えている彼女の背中をさすってやり、偶然、今朝買ってポケットに入れたままだったお茶を開けて飲ませた。
「‥ごめんなさい」
「別に謝る事じゃない」
「ううん、私自身が悪いの」
「いや、お前のガキは俺のガキだ、お前だけに責任が有るんじゃねえ」
途端に小さなタイル張りの部屋に静寂が戻る。彼女がその言葉にきょとん、としていた。
「‥子ども?」
「ああ、居るんだろお前の腹に」
「‥‥‥‥何で?」
「さっき吐き気がって言ったじゃねえか」
「‥‥」
「図星だろ何か言え」
急に黙りこくってしまった。かと思いきや、また更に申し訳なさそうに俺の顔を見る。眉をへの字にして、それから俺に向かって物凄い勢いで頭を下げてきた。
「ごめんなさい」
「‥‥‥は?」
「國春のウイスキー黙ってのんだら気持ちが悪、っう、また‥」
「お、お前それ悪阻じゃ」
「本当にごめんまた後でゆっくり謝るから今は、う、國春トイレから出てって――!!!!」
ばん。扉が目の前で勢いよく閉まる。ああ、そう。妊娠じゃなかったのか、酒か。つまりは二日酔いか。
「‥‥‥ちっ」
少し残念だが、まあいい。
さて、これからあいつらにどんな雰囲気で説明したらいいか。事務所に戻りながら久しぶりに頭を働かせた。
(お帰り社長―っぐあ!)(吾代のせいで恥かいた死ね)(社長!落ち着いて――)(豪田くんよ、誰だったかな最初に妊娠だってほざいたのは、くそ、本当にやるぞ俺は!!)(っな、!何言ってんだよ!)
20100517