「では少し、こちらで待っていて下さいね」

「はい」


かなり場慣れして来たとは言え、公務に対する時はやはり緊張するのだろう。きりっと整えられていた上様の顔はそれが終わった今、気が抜けたようにほやんとしている。

私だけが見る事を許されたその表情に胸の内に恋情が温かく流れるが腹に溜まる黒い物に今は儚く霧散した。

すぐに戻りますと葵の間を後にすると苦虫を噛み潰したような顔をする旧友の元へ足を運んだ。


「――やはり来たか、緒形」

「当然です。――春日局様」

「いや、駄目だ。奴にはまだ使い道がある」


お互いに相手の言葉を先読みしつつ、意見を合わせる。普段冷酷なように見せているが彼はとても理知的で殆ど私的な感情に流される事はない。

その姿勢には感心するし、私も普段はそれに従う。だが――。


「影武者さんに色目を使って来たんですよ?許せると思いますか?」

「緒形…」


非難と困惑の眼差しが向けられるが正直私には春日局様ほど公私を分ける事は出来ないし、こと影武者さんに掛けてはするつもりもない。

――いつか選ばれるかも知れない側室候補として大奥に数千人の男衆を抱えていてもその者達が上様の公務に首を突っ込む事はない。あくまで大奥に居る者の役割は上様のお疲れになった心をお慰めする事であり、例え寵愛を頂いたとしても全ての権力を手にする訳ではないのだ。

私は影武者さんの夫――上様のご正室として多少の関与は許されているがそれは特例中の特例。そうそう簡単に誰もが政治を動かせる立場にあれば世が乱れてしまう。

だから大奥は上様――影武者さんが心変わりしない限り、私の恋敵にはなりえない。外聞的に必要で懸想する男が山ほどいる現状に良い気はしないが。

けれど公務に携わる者達は違う。

こちらの内情など知らずに家光様の事を男好きな好事家であると枠にはめてしまっている高官も少なくはないのだ。規模が桁違いではあるものの大奥は上様のごく私的なもの。公務に差し支えなければまぁ個人の認識など正すまでもない。

ただそれで野心のある誰かが動かないとは限らない。自分が上様の寵愛を受ければ現状如何な政の末席にあろうとも絶大な発言権を得れるだろうと。事実その通りであるからこうして露払いに一々春日局様と膝を突き合わせなければならないのだ。


「――ふ。随分余裕がないではないか、緒形。お前ともあろう者がたかだか小娘一人にそこまで振り回されるとはな」


明らかに苛立ちを隠さない私にふっと肩の力を抜いた春日局様は言った。

これは挑発だ。私にそうではないと言わせる事によって公務の場で上様に含みある言葉を寄越して来た男を虚偽をかけて潰そうとしている私から遠ざけようとしている。

『振り回されている訳ではない?ほう、ならば影武者から件の男を引き離すだけで良いな。一瞬でも二人並んでいるのが苦痛だと言うのなら話は別だが…。流石、想い合う男女の絆は懐が深い』だの何だの言って煙に巻くに違いない。

春日局様は矜持が高い為かこう言った揺さぶりを好まれる傾向にある。確かにどんな男も見栄やら誇りやらは多少なりとも持っているものなので個人差はあるものの確実な効果はあるだろう。

けれど恋に落ちた哀れな男にはその煽りは無効だ。春日局様も上に立つ立場なら一度自分自身を見失うほど呑まれた方が良い。


「ええ、そうですね。私は彼女に溺れていますから上様の寵愛を受けようとする者が目障りで仕方ありません。余裕など残していて横から攫われてしまうくらいなら無様に足にしがみ付いてどこにも行けないようにしたいですね」

「……」

「春日局様。言うまでもなくご存じでしょうが御典医時代からそれなりに私にも目をかけて下さっている方が些少なりともいらっしゃいます。憂う私を慮って、下さる御慈悲が余りにも私の意図とかけ離れていたとしてもたかが一庶民の私には名のある方々の温情を無下にする事はとても出来ません。つい過激が過ぎて彼に何かが起こっても私の預かり知る所ではありませんからね?」

「…待て」


色んな裏を含ませて矢継ぎ早に免罪符を得ようとする私に春日局様は不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

あえて今までの苛立ちを全て忘れたかのようににこにこ笑い、はいと返事をするとそれに返ってきたのは重く深い溜め息。


「影武者の趣味が悪過ぎるせいでここの所私の予定は狂いっぱなしだ」

「その分私が動きますからいいでしょう?」

「お前は私の汲みする以上に動くから使っている気がしなくてつまらん」

「おや」


それは初耳。では次の機会にはもう少し春日局様の好みに場をかき乱してみましょうか。

そんな事を考えていると不意に障子の外から声がかかった。


「――春日局。緒形はいるか」


どこか横行さを漂わせる女性の声は今まで話の渦中にいた人物のものだ。

上様の影武者として人目に付く場所でなくとも極力そうあろうとする彼女は努力家でいじらしい。その小さな背中を私が包んで守ってあげられたらと思った事は一度や二度ではない。ピリピリした雰囲気がふと緩み、私の心が簡単に弾む。


「ええ、おりますよ。上様どうぞご入室下さい」

「うむ。入るぞ」


尊大に返事をし、襖を開けたどこかきりっとした影武者さんは後ろ手にそれを閉めた途端、申し訳なさそうに眉を下げた。


「何用だ」

「す、すみません。お話のお邪魔をしてしまうと思ったんですけどさっきのお役目で何か粗相をしてしまってもしかしたら緒形さんが私の代わりに怒られているのかも知れないと思うと居ても立ってもいられなくって…。あの!緒形さんは何も悪くないんですっ。叱るなら私を叱って下さいっ!」


自分の中で結論付けられていたのだろう現れるなり、意気込んで来る影武者さんに私も春日局様もぽかんとする。

…まぁ確かに公務後機嫌の悪い春日局様を取り成した事は何度かあるが今日は別段目に付く失敗もなく、巧みに上様の顔が出来ていたと思う。それなのにこう前のめりに罰してくれと言い出してきたと言う事は余程身に覚えがあるのかそれとも、些細な小言さえ私に降りかかるのを良しとしないか――。


「ふ――ふふっ」


じわじわ広がる喜びに抑えられない笑いが込み上げる。

ああ今すぐ影武者さんの側に寄って抱きしめてしまいたい。

愛されていると言う実感が耳から全身を巡り、仄暗い感情を押し退けて灯った恋心を燃え上がらせる。好きと口に出せば少しは落ち着く胸の激情がめらめらと音を立てるのが聞こえた気がした。


「…上様の顔でないなら見当違いの意見大いに結構。だが余り無闇やたらにこいつを喜ばすのは止めておいた方が良いと思うぞ」


一瞬目を点にして次いで笑い出した恋人と説教ではなく、諭し始めた教育係に今度は相当覚悟を決めてきたのだろう影武者さんの方が虚を突かれた顔をしている。

余計な事は言わないで下さいよ、春日局様。影武者さんはこうだから可愛いのに。

強い意志を差す眼差しは確かに美しいが今のように疑問を全身で表し、きょとんとする瞳も愛らしくて愛おしい。


「ふふふ…ありがとうございます、影武者さん。大丈夫、話し合っていたのはその事ではないんですよ。そもそも今日春日局様に呼び出されるのならお叱りを受けるのではなく、お褒めの言葉を下さるはずです。流石に私が貴女の代わりに労わられる訳にはいきません」

「あ…そうなんですか」


良かったと胸を撫で下ろす影武者さんをにこにこと見つめる。


「――春日局様?道が一本使えなくなった所で代用があれば問題ありませんよね?こちらで用意しますから」

「……好きにしろ」


愛しい恋人から目を離さずにそう言うと背後でやたら大きい溜め息が聞こえた。春日局様は案外融通が利く方なので助かります。


「さあ、影武者さん。私の用件も終わった事ですし、私の部屋に行きましょう。蔵之丞から分けて貰った美味しいお菓子があるので一緒にご相伴に預かりませんか」

「ええ、あ、は、はい」
 

私達のやり取りについて行けず戸惑う影武者さんに何でもないと話を切り、小首を傾げて見せる。取った手は小さく私の手によく馴染んだ。

彼女を独り占め出来る特権、それを行使出来るのも許されるのも私だけ。そう望んでいるのは貴女もだと私は信じていますよ、影武者さん。




緒形さんはこのルートが一番輝いてると思います。春日局様と双肩ならもう向かう所敵無しですね。

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