じゃじゃ馬にも程がある上様がまた勝手に城を抜け出して幾日。

やれ家光様のご意見も伺わないと閣議の意味がないではないかだの、将軍様に謁見願いたく遥々膝下に馳せ参じたのにお声も掛けて下さらないとはどう言う事だだの、こちらの事情も知らずに好き勝手騒ぐ有象無象を黙らせていられるのもそろそろ限界だ。

緒形の方から体調が思わしくないと言わせているがそれが十、二十にでも長引けば悪い噂には尾ひれが付くだろう。その内に古狸共が病ではなく、呪いではないかとうそぶき始め、祈祷でも試みようとするのが目に見えている。

民を放ったらかし、下らない事に時間を浪費するほど馬鹿馬鹿しい事はない。純粋に上様の身を案じて講ずるならまだしも大半がおためごかしとなれば付き合ってられる訳もない。

まぁ、奴らを騙くらかすだけなら方法は幾らでもある。…問題は上様だ。

稀にお忍びに出掛けるくらいならまだいい。立場上、大っぴらに許す事は出来ないがある程度なら私としても目を瞑らない事もない。

城での生活は贅沢ではあるが窮屈で嫌気が差す事もあるだろう。外での暮らしに憧れを抱く気持ちも分かる。将軍様としての枷も上に立つ者に課せられた重圧も息を吐かずにずっと続けられるようなものではない事くらい、重々理解しているつもりだ。

…だが、これほど頻繁に上様の職務を放って置かれてしまえばこちらも袖の振り方について思案しなければならない。


「――そろそろか」


溜まった公務に意識を向けると自然と眉間に皺が寄るのを感じ、息を吐いた。

上様の放蕩癖には困ったものだがやっと穴を埋める道具が用意出来た。以前から欲しいとは思っていた手駒だがまさか今見付かるとは…。

上手くやれば私の心労も解消されるし、その上で使える玩具にもなるかも知れない。

麻兎が連れて来た“上様”を寝かせてそろそろ半刻は経つ。一体どれほどのものか定かではないが…御尊顔を拝見させて頂いてからでも切り捨てるのは遅くはないだろうと私は自室の襖に手を掛けた。





*****





「くく…」


嗜虐感を伴う奇妙な高揚に意識せず、忍び笑いが零れる。

――文机には無造作に広げられた書物。

他人に教える座学とは私にとっては何の面白味もない反芻にしかならないが玩具を転がしながら振るう教鞭はいや中々どうして、退屈しない。

場所が場所なら門外不出とされてもおかしくないそれの表紙を閉じ、影武者が触れていただろう箇所を指でなぞる。

――影武者として手に入れた駒は確かに上様に瓜二つだった。

顔の造形だけでなく、背丈、声色、肌の色味さえもそれこそ生き写しと言う他ない。

確かに上様――家光様の外見はお産まれになった時から持ちえる気品や尊厳に影響されている部分が大きく、たかが商家の娘が醸し出せるものでもない事は明らかだ。私が少し扇子で顎を上げさせればそれこそ不安そうに瞳が潤んであの跳ねっ返りがそんな態度を取るとはまず考えられない。

――まぁ、だからこそ私が直々に教育してやろうと考えたのだが。

拉致に相違ない形で連れてきたにも関わらず、影武者は従順だった。私が山のように資料を渡しても日がな一日自室で唸っているし、教師を勤めれば不器用ながらも教えを乞うてくる。

何より少し成果を褒めてやれば嬉しくて堪らないと言う表情をする…可愛い生徒だと思わずには居られなかった。


「……」


自分のものではない甘い匂いが微かに鼻を掠める。

家光様と全く同じ香を変わらず焚き染めさせているので馴染み深い香りではあるのだが触れた書物から瞬間影武者の屈託のない笑顔が脳裏に浮かび、その残り香に微かに――胸が疼いた。


「……。…何を馬鹿な」


家光様の教育係として長らくだが学問を教授しているのか説教をしているのか何なのか分からなくなる事も多々ある。それに加え、鷹司殿も城を抜け出したとの報告が入ればやれずるいだのやれ私も遊ばせろだの…頭の痛くなる思いだ。

だから私に付き従い、意のままに動かせる傀儡が愛おしく、同時に鬱屈を吐き出せる玩具を大切に想うに違いない。

心の底を波立たせる熱は確定付けた想いとは裏腹に行灯の火が部屋の影を揺らすようにいつまでも退かず、中の油が尽きるまで影を揺らめかせていた。





*****





細い腰を引き寄せ、艶やかな黒髪に指を差し入れる。

もがく様をただ眺めているのも楽しいがこうして昆虫を針で刺して己の手中に収めてしまうのもまた魅力的だ。


「…っ、っ!」


物覚えの悪い割りに努力家で与えられた役職をこなそうと日々努力しているはずの影武者は事この件に掛けてはいつまで経っても飲み込みが悪い。

…いや、私に構ってもらいたくてわざと初な振りをしているのか?

それはそれで愛らしいが頬を真っ赤にして息も絶え絶えな影武者を見ていると私さえ謀れるほどの計算の上でそれを行っているとは考え難い。…流石にそれほどの手腕を期待するのは過大評価かと瞬時に考えを改めた。

口角を上げながら口内から差し抜いた舌で唇を一舐めし、軽く合わせる。

甘い痺れが柔らかな熱から胸に溜まり、愛しさから離れがたく思うのだがこのままではそれをもたらしてくれる存在が憤死してしまいそうで名残惜しいが唇を解放した。

ちゅっと可愛らしい音が鳴り、抱き締めた腕の力を軽く抜く。


「…貴女は本当に事これにかけては物覚えが悪い」

「っ、申し訳…ありませ…」


わざと眉を潜めて言ってやると口元に手をやり、肩で呼吸を繰り返す影武者が謝ってきた。

潤んだ瞳からは涙すら流れそうで非常にそそられるものがある。熱した心がその様子に満足するように笑ったのを感じ、私は俯く影武者の顎に手を掛けて上を向かせた。


「…こちらを向け」

「か、春日局様っ…まだ赤くて…、お、お許し下さいっ…」


混乱しているのか未だ頬どころか耳も首も染めた影武者は私の視線から逃れようと身を捩った。

――ほぅ。


「口答えか?いい度胸をしているな、影武者」

「違っ…私はただ…」

「貴女は私の物だ。散々言って聞かせたと思ったが…。まだよく理解していないようだな」


出来の悪い教え子を叱るように口調に冷気を込め、今度こそ強く上を向かせた。

一対の大きな瞳がこちらを怯えたように、しかし恋情を湛えた色でこちらを見ている。

――ああ。

いつかいつだったか…貴女の瞳にそれが混じり始めた頃から私の中の好意もそれに変化を始めたのかも知れない。

切って捨てる生き方を選ぶ内にいつの間にか無くしていた慈しみ、誰かを愛おしいと思う感情。

今の私ならはっきり自身の瞳にも同じ想いが灯っているのが分かる。

その甘い視線の海に囚われると波紋が切なく胸を波立たせて堪らない。

私にこんな感情を抱かせているなどと…貴女は一体どこまで気付いているのだろうか。


「身体や心だけでなく、その視線も全て――好きにしていいのは私だけだ。貴女に少しも自由はないとここに来た当初、言ったはずだが…」

「で…でもそれはあの一ヶ月だけで――」

「納得出来ないと?…何ならもう一度将棋で勝負するか?」


自然と甘くなる声色に内心苦笑いしつつもその混じり合いに惹かれるようにして私に逆上せる頬を優しく撫でた。





大奥の春日局様ルート凄く好きです。あの一連のデレ方は反則だと思う。

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