「――」
慣れた言葉で軽く労いを口にし、見送りの男を追い払う。
俺のぞんざいな対応にも黒服の男は表情一つ変えずに深く頭を下げ、今まで乗ってきた車に戻って行った。
ここには組織にではなく、俺への忠誠と――特に従わざるを得ない弱味を握っている者にしか寄せ付けない。
簡単な施錠を解き、敷居を跨ぐ。
――隠れ家、とでも呼ぼうか。
実際俺には各地に本邸とは別に別荘のような家がぽつりぽつりあるがその幾つかの中でもここは秘密裏に使っていた屋敷だった。
そこまで大きくはないので使用人は置いていない。その点ではお誂え向きだった。
扉を開け、何部屋か抜けると大きな錠前が付いた扉に辿り着く。大仰なそれをがちんと外し、中に入ると突如見知った匂いに呼吸を支配されて俺は毎度のこれには苦笑いを禁じ得ない。
この締め切った扉の向こうには俺だけでなく――彼女もいるからだ。
最近では道順を覚えたのか俺の助けなくとも厠まで行けるようで帰って来て早々唸るような悲しげな声は聞こえない。短めの廊下を抜け、開け放してある扉を潜る。
「ただいま…姫様」
赤い天鵞絨の幕の向こうに備え付けられている長椅子に大人しく腰掛け、ぼんやりと宙を見ている民族服の女性が一人、そこにはいた。
だが彼女が俺の姿に気付く事は決してない。声を掛けても勿論気付かない。驚かせないように近付き、肩にそっと手を置く。
「――。あ…」
彼女は言葉にもならないような空気の声を喉から出し、その曇った瞳を感触の先にあるだろう俺の身体に向けた。
ここには俺以外入る事はないが彼女にはそれが分からないだろう。挨拶の意味も込めて華奢な身体を深く抱き締めた。
ふわりと香る彼女の体臭。俺ととてもよく似ているが甘い――白百合の香り。それに目を細めていると彼女もくんくんと俺の臭いを嗅いでくる。
三郎が勝手な行動を起こして辿り着いた結果、彼女は全盲になり、耳も全く聞こえなくなった。反応もなく、俺の呼びかけにも応える素振りを見せる事はない。
暗闇と無音。彼女は今、触覚と嗅覚、味覚だけの世界に生きている。想像するだにそこは地獄である事は間違いない。
「俺ですよ…。ね、分かりますか?」
首元に顔を寄せる彼女の髪を優しく好く。彼女には声は聞こえないのは分かっているが話しかけてしまうのはほぼ癖だ。
「――あ、…ぅ、あ」
彼女は本来知覚する為の器官以外で何かの確信を得たのか、口元を嬉しそうに綻ばせて俺に擦りついてきた。丁寧に結んだお団子がそれによって少し乱れる。
可哀想な姫様。
五感のほぼ半分を奪われ、自身無音で過ごしている為だろう声を出す事すらままならなくなってしまった彼女が易々と生きられるほどこの世は甘くない。
きっと一人で路傍に放り出さされれば半日もしない内に微かに灯る命の灯火も風に掻き消されてしまうだろう。
俺の人生最大の目的はあの家の者達全てに絶望を味合わせて殺す事。
――今が絶好の機会ではないのか。そう確信した俺は寝たきりから回復し、検査を受けたものの医者達を困惑させていた姫様をここ、上海に連れてきた。
彼女の今いる世界は地獄。
ならばその地獄の中になるべく長く居て貰いたい。そう思った俺は彼女を囲い、かいがいしく世話を焼いた。
身体を清潔にし、髪を梳き、服を着せ、飯を食わせる。些細な事も他人に任せる訳にはいかない。これは俺の復讐だ。
実際、上海で商売する傍らであれば最低一日一度足を踏み入れる事さえ難しいのではないかと思っていたが果たして長年抱いていた怨嗟の心のお陰か――抱いていた浅ましい想いがそうさせるのかは分からないが日がな一日ここで過ごす事も稀ではない。
「うー、ぅぅ」
久し振りに所用で長く留守にしていた俺の感触を確かめようと身を寄せてくる姫様が可愛い。
整った容姿に美しい身体。俺に全てを委ねてくる彼女はまさに人形のようで世話をするのは別段苦ではなかった。
――そんな中、傾けた俺の欲望の声。
彼女には俺が分からない。分からないならば――。
……俺自身にその能力がない以上、身体を重ねても残るものはない。誰と交わったと言う記憶は残らず、禁忌の行為である事も知覚できるのは俺だけで彼女をより苦しめる為だと繰り返し、寝所を共にした。甘美な享楽に耽っている内にいつの間にか彼女からは抵抗が消え、今では俺の胸にすがってくる。
彼女が今の状況から回復する事はないだろう。ならばこのままでいたい、全てを忘れて彼女を――人形を愛でる生活に身を浸した。
自分を生かしてくれる唯一の存在だと認識したのか今日も姫様は手さぐりに俺に唇を寄せてくる。彼女の意志は読み取る事は出来ないけれどその柔らかな感触と官能に酔いしれる為、俺は早々に舌を絡め出した。
俺の人形。――可愛い愛玩具。
盲妹の話を聞いてあのスチルに心底びびっていたのですが(先に雑誌で見た事があったので)違って正直ほっとしたような拍子抜けしたような…。
しかしあの状況下の生活で幸せと言える百合子は凄いですね。