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唇のぬくもりを感じていて




そういえば最近、母の日、というものの存在を最近小耳に挟んだことを思い出した。外国から入ってきたらしく、まだあまり世間には浸透していないが、もし全国に広まればとても良い文化になると思った。現在はまだ外国の宗教を信仰している者しか実行していないというが、名前がついていないだけで自分の母親に日々の感謝を伝えている者はこの国にも山ほどいるだろう。俺の母上は残念ながらもうこの世にはいないが、いつかは母と成るであろう人物はすぐ隣にいた。

「……どうしたんですか杏寿郎さん、もしかしてご飯がお口に合いませんでしたか?」
「いや! とんでもない! 俺の妻の飯はいつも美味い!」
「なら良いのですけど」

なまえはほっと顔を綻ばせて柔らかい笑みを見せた。俺にじっと見られていたせいで、少々居心地を悪くしてしまったらしかった。彼女からすると俺の眼差しはかなり突き刺さるというか、とても分かりやすいらしく、洗濯物を干しているときは特に感じるらしい。図星だった。任務も警備もない日に彼女のせっせと働いている背中をぼーっとしながら見つめるのは、日向ぼっこをしているときのように温かい気持ちになるから。……思い返してみれば、俺はいつも家事を彼女に任せっぱなしにしている。俺はそんな彼女に感謝したことがあっただろうか。

「……あの、杏寿郎さん、さすがに見すぎではないでしょうか……?」
「今気づいたんだが、俺はなまえにちっとも日々の感謝を伝えていないな!」
「はい?」
「家のことはいつも君に任せきりだ。俺は家事は妻の仕事だと思っているが、それは当たり前のことだと夫が平然とするものの類ではないと思う! まあ俺はそれにも関わらず礼のひとつも言えていない訳だが!」

俺がすらすらと言葉を口にする様をなまえは唖然とした様子で見ていたが、俺が言い終わってしばらくすると、慌てて弁解するように詰まりながらこう言った。

「と、とんでもない! 杏寿郎さんはとってもご立派な鬼狩り様ですし、これくらいは本当に、当たり前のことなので……!」
「普通の者から見れば俺は立派な鬼狩りかもしれないが、君にとっては鬼狩りであり夫だ! 何か日々の感謝を込めてなにかしたい! 何がいい? 簪か? それとも紅を贈ろうか!! なまえは肌が白いから、深紅の紅がとても映えるだろうな!」
「えっ!? あ、あの、ちょっと落ちつ……」
「何がいい!? 言ってみなさい!」

ずい、と顔を近づけて詰め寄ると、なまえからひえ、と情けない声が漏れ出て、梅の花が描かれた彼女の箸が手から零れ落ちてからんと音を立てた。

「遠慮するな! うちは金に困ってる訳もない!」

倒れかけたなまえの背中に手を回して「何が欲しい?」と改めて問う。退路を断たれたなまえは覚悟を決めて、といった様子で、でも遠慮気味に口を開いた。

「あ、あの……、……お、お金がかかるものではないのです……」
「?」

もじもじと下を向いて汗顔しているなまえに、俺は俺は首を傾げた。顔は見えないが、耳は赤く染まっている。ともすれば「言葉だけで十分」と言いたいわけでは無さそうだ。困った。俺は空気を読んで察するのがどうしても苦手だ。

「……すまない!! 恥ずかしいところ申し訳ないが、はっきりと言って貰えないだろうか!」

正直に言ったことが正解だったのか、なまえはそれを不愉快に感じた様子もなく、恐る恐る顔を上げた。手で隠しきれているつもりなのかもしれないが、その真っ赤な顔を隠せる訳はない。

「……口吸いを、して頂けないでしょうか……?
ほ、ほら、その、最近ずっと任務でここにおられませんでした、の、で……」

声量はだんだんと小さくなり、やがてか細い声となり消えてしまった。が、前半部分ははっきりと聞こえた。ふむ、なるほどそういうことか! なら話は早い。

「分かった! 女性からそのようなことを言わせてしまい不甲斐ない! 俺も精一杯その気持ちに応えよう!」
「えっ、あっあの、まだ心の準備、がっ……!?」

俺は彼女を待たず、そのまま口付けた。
ふに、とした柔らかい感触は久しぶりなもので、「日々の感謝を伝えるためになまえの願いを聞く」という目的のための行為のはずなのに、何故だか俺の方が強請ってしまっている。柔らかいその下唇を唇を食べるかのように甘噛みすると、彼女が体を震わせる。そのまま浅く舌を挿入すると、すぐ近くになまえの舌があって、とんと少し触れ合った。もう少し続けたいと思ったが、胸を押す彼女の手の感触がして、俺は無意識に掴んでいた彼女の方を手放した。

「むっ、すまない! 苦しかったか!」
「だ、だいじょうぶ、です、」

あんな思いきり俺の胸を押しておいてそんなことはないだろうに。それでも一生懸命呼吸を落ち着かせようと逆に荒い息になる彼女に、俺は子猫を見ているかのような気持ちになる。なによりも、こういうお願いをしてくる彼女のことがとてつもなく愛おしかった。

「っ、ひゃ!?」
「本当に愛らしいな君は!!」

がば、とした覆い被さるようになまえに抱き着くと、その小さな体は殆ど俺の首から下に収まってしまう。きっと後ろから見たら俺がただ床で蹲っているだけに見えてしまうのだろう。
苦しいですう、とくぐもった声が聞こえたが、それには聞こえないふりをした。ぐぐ、と体重をかけると、何の訓練も受けていない彼女の体はみるみる倒れ込んでゆく。

「あ、あの、重いです、杏寿郎さん……!」
「わざとそうしているからな!」

そう言うと、途端になまえは黙り込んでされるがままになる。完全に俺が彼女を押し倒した体勢になったとき、「まだご飯中なんですよ……」と弱々しい声が聞こえた。




2019.11.22

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