君の瞳は何色だろう
珍しく腹が空いていた。そんなときに限ってたまには信者を食べてあげようという気分になれなくて、俺はその日彼らに適当は言い訳をつけて、夜の街へ出た。
はじめから目星はつけていた。近所の茶道家の
娘だ。もしこの家の娘を食べたら抹茶の良い香りがするかもしれない、なんて単純なことを考えたから。なんでも今日は父親以外のほかの家族が出払っているそうで、庭を囲む塀を乗り越えて縁側の戸を開けると、そこに娘はいた。すやすやと心地よさそうに寝息を立てて。
「こんばんは」
「……」
起きる気配はない。うーん、やっぱりちょっとした挨拶くらいでは起きてくれないのか。
「おーい、起きてよ」
「……」
耳元で話しかけても、彼女の表情はその安らかそうなそれから一向に変わる気配もない。寝返りを打つ素振りも見せなかった。
「いい加減起きないと、きみを食べちゃうよ」
白い頬に軽く爪を当ててみる。それでも彼女は起きない。仕方ない。少しお喋りしてから食べてあげようと思ったけど、このまま食べるとしよう。苦しむのは可哀想だから、指で心臓を一突きしてから食べよう。そう思って手を構えたときだった。
「――そこで何してる! 」
ガタン、と勢いよく縁側とは反対側の襖が開いた。男の姿だった。見た目からして、彼女の父親だろう。
「動くんじゃねえ! なまえに手を出すな! さもないと……」
男が包丁を向けたその瞬間、男の体から血が吹き出した。当たり前だ。俺が彼を殺したのだから。己の体にかかった生ぬるい血飛沫は何度経験しても癖になる感触だ。ばたりと大きく音を立てて倒れる男の懐から、小さな手帳が落ちた。俺はそれを気にすることもなく、なまえへと向き直る。
「なまえちゃんって言うんだね。……ねえなまえちゃん、きみのお父さん殺されちゃったよ? 起きないの?」
「……」
彼女の額には、父親の血飛沫が少しだけ付着していた。俺が頭を撫でると、髪はべたりと血で濡れた。黒髪だからあまり分からないけど、月光に照らせばきっと赤く反射して綺麗なんだろうな。
「……あっ、そうだ」
あの男が落とした手帳に、なにか書いてあるかもしれない。そう思った俺は、血だまりの中にあるそれを素早くつまみ上げて、まだ赤く染っていないページを開いた。
“○月×日
なまえが事故にあってから一週間経つ。いつになれば目を覚ましてくれるのだろうか。早くお前が大好きだった抹茶を飲ませてやりたいよ”
「……ほうほう」
事故。なるほどそういうことか! ならこの子は、今目覚めるかもしれないし、一生目覚めないかもしれないってことか。
「面白いなあ。かわいいなあ」
まるでろうそくの火みたいに弱くて、静かで、今にも消えるかもしれないという命。なんて美しいんだろう。まるで植物……例えるなら、月下美人みたいだ。目が覚めるまではこちら側の人間にはただ待つことしか出来ない、それ以外はどうしようもないなんて、なんて惨めなんだろう。そう思考がぐるぐる回るころには、もう空腹なんて忘れてしまっていた。
「決めた! 俺、きみを連れていくよ。そして目が覚めるまで待っててあげるね。もし死んじゃったら、俺が食べてあげる」
想像しただけで気分が高まった。信者が訪ねて来ない限り、俺ずっと彼女のそばにいよう。死んじゃったら、どの信者よりも先に食べてあげるんだ。そして目が覚めたら、たくさんたくさんおしゃべりしようね。
2019.4.1
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