彼の心情なんて知らない
ことの始まりは何ら珍しくもない藤の家での晩飯で、なまえが脂の乗った旬の秋刀魚の塩焼きを頼んだのが原因だった。
「思ったより、その……脂っこいです」
「旬の魚なんだから当たり前だ。あれほど忠告してやったのに無視するからだ、自業自得だな」
「ぐぬぬ……」
箸で行儀悪く秋刀魚をつつく彼女の手を軽く叩いた。半分以上は食べているものの、その肥えた魚は一口一口が胃にかなりの負担がかかるに違いない。
「……伊黒さん、」
「断る」
こんなもの、一口でも食べたら一ヶ月は何も食べなくても生きられそうな気さえするのに。
「うう……」
「嫌なら残せばいいだろう」
「せっかく作ってくださったのに?」
「そのせっかく作ってくれたものを無駄にしようとしているのはお前だ」
悔しそうにしながらなまえは口を噤む。さすがに納得したのかそのまま一口秋刀魚を口に入れた。むぐむぐと咀嚼音は聞こえるが、その表情はあっという間に曇っていく。
「……伊黒さんの蛇さんって、お魚食べられないんですか」
「熱いものは食べられない。何回も教えたのに頭の悪い奴だな」
なまえは一瞬はっと思い出したように目を見開くと、すみませんと苦笑いを浮かべた。俺がきつい言葉を投げかける度にこうするのだから、もう慣れたものなのだろう。それでも蛇には慣れていないらしく、あやうく利用されそうになった俺の蛇に睨まれて簡単に怯んでいたが。
そんなとき、障子の奥から何やら小さな声が聞こえた。
「!、猫だ!」
なまえはすぐに障子を開けると、小さな猫が目の前にちょこんと座っていた。見たところ首輪などは着けていない。
「野良猫だな。触るなよ、菌が伝染る」
「ええー……あ、そうだ、秋刀魚、この猫ちゃんにあげても良いですか?」
名案を思いついたとでも言うようになまえは瞳をきらりと光らせた。
「好きにしろ」
「やった! 、少し待っててねぇ」
さっきまでの暗い表情が嘘のようだ。さっさと秋刀魚の骨をとるなまえに猫がにゃあと短く鳴く。
「ほら、できたよー」
なまえが皿を置くと、猫はぺちゃぺちゃと音を立てて秋刀魚を食べていく。時折歯が皿にあたってこんと音が鳴った。それすらも愛おしいのかなまえは手のひらを赤く染まった頬に添えてただじっと観察している。
「かわいいなあ」
とろとろと笑みをこぼすなまえに、猫が笑ったような表情をしながらまた高い鳴き声を出した。
そんなやりとりを見て、首元の蛇は嫉妬したように彼女をじっと見つめていた。それが少しだけ面白く思えて笑ってしまいそうになったのは、きっと誰にも言えないだろう。
back