車椅子の楽しみ方
書いた日は母の日でもなんでもありませんが……
「あら、ブチャラティじゃない!」
そう言って女性は嬉しそうにはにかんだ。けれども手で握っているハンドルとブレーキは手放さない。なぜならそれには自分の娘が乗っていたから。
「ボン・ジョルノ、アレッシア、なまえ」
「ほら、なまえも挨拶しなさい」
「こんにちは、ブチャラティさん」
なまえは生まれつき足が不自由で、幼いときから車椅子を使って生活していた。出かけるときは両親のどちらかに押してもらっていたが、二年前に父が亡くなってからは車椅子を押すのはこの母、アレッシア一人になってしまった。ブチャラティと知り合ったのもこれがきっかけで、落ち込んでいた母が立ち直れたのも彼のおかげだった。
「今から買い物かい?」
「ええ。欲しい本があるそうだから、今日はなまえも連れてきたの」
ね、と母親はなまえに笑いかけた。その手には丁度近くの書店の名前が入ったビニール袋が握られている。
なまえはそんな母ににこりと笑い返して、視線をブチャラティの方へと向けた。
「ね、ね、ブチャラティさん。ちょっとしゃがんで耳をこっちに向けてくれませんか?」
「?、ああ」
なまえの母はそんな様子を見て微笑ましそうに笑みを漏らした。ブチャラティは不思議そうな顔をしながらも車椅子に座るなまえの視線の位置にしゃがんで、耳を彼女の方へと向けた。なまえはその耳に手を添えて、こっそりと耳打ちした。
「本当に急なんだけど……もうすぐ母の日でしょう? わたし、マードレに何か贈り物をしたいのだけど、わたしの足じゃあ一人でどこにも行けなくて……」
少し恥ずかしそうに眉を下げるなまえに、ブチャラティはそんなことかと微笑んだ。どうやらさっきの話は母親には聞こえていないらしかった。
「アレッシア、なまえを連れているのなら買い物には時間がかかるだろう? 良ければ俺が彼女を先に家まで送ろうか」
「貴方ならこの子に何もしないだろうから安心はできるけど………なまえはいいの?」
「わたしは大丈夫。あ、でもブラウニーは買ってきて! いつも食べてるやつね」
「はいはい、分かったわ。じゃあ、良い子にしてるのよ。ブチャラティ、ハンドルとブレーキは自転車みたいにちゃんと同時に持ってね」
「ああ、分かった」
母親はブチャラティに簡単に車椅子の説明をすると、軽く手を振ってスーパーの方へと歩いていった。ブチャラティは彼女の言う通りハンドルとブレーキを同時に握る。軽く視線を下に向けるだけで、彼女のつやつやとした髪に目が入った。正面からでは見られないものだったから、結構いい景色かもしれない、とふとそう思った。
「わたし結構重いから、なんか恥ずかしいや」
「そんなことないさ。それよりも、もうプレゼントの目星はついているのか?」
「うん。プリザーブドフラワーをあげたいの。知ってる?」
プリザーブドフラワーとは、特殊な加工がされていて数年は枯れずにいる花のことだ。カラーバリエーションも豊富で有名だから、知っている人間は多いだろう。値段はこのくらい、色はあの色で、と楽しそうに話し始める彼女に、ブチャラティは近くにある花屋へ向かって慣れない手つきで車椅子を押しはじめた。
花屋についてからそんなに時間はかからなかった。現になまえは綺麗にラッピングされた袋をなまえは嬉しそうに撫でている。中の綺麗な花々は彼女の思っていた通りのものだったようで、その様子にブチャラティは彼女の後ろで優しい顔つきで微笑んだ。
「わたし、ブチャラティさんに頼んでよかったです。いつも忙しそうなのに、ありがとう」
「礼を言われるほどでもない。いつものきみの苦労に比べればなんでもないさ」
やっぱりブチャラティさんは優しいね、となまえは照れくさそうに頬を掻いた。そんなときビニール袋が激しく擦れる音がして、なまえはその音の出処に視線を向けた。
「ブチャラティ、なまえ! もうとっくに家に帰ってると思ってたわ!」
その声の主はなまえの母親だった。彼女はなまえを見つけるなり大量のビニール袋を持ちながらこちらへ駆け寄った。なまえはとっさに自分の持っていた花を本が入っていた袋で隠す。
「ちょっと時間があったからゆっくり散歩をしていたんだ」
「うん」
「あら、そうだったの。ありがとうブチャラティ! 車椅子押すの大変だったでしょ」
母親はハンドルに今まで持っていたビニール袋を吊り下げて、再びそこに握った。思ったよりも居心地の良かったその場所をまんまと奪われてしまったブチャラティは、なまえの目の前に回ると、軽く頭を撫でた。
「この位置だとやりやすいな」
「えへ、そうでしょ?」
こんなにも穏やかな気持ちになったのは久しぶりかもしれない。彼女らと別れて一度振り返ってみると、なまえはニコニコと笑って手を振っていた。もう一度振り返ると、もう彼女の姿は母親の人影で見えなくなっていた。
2019.1.27
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