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あなたの心を体ごと盗んだ


善逸は宣言通り、次の日静の部屋を訪ねてくることはなかった。その次の日も、そのまた次の日も。その度静はじっと善逸が贈ってくれた簪を眺めては、また懐へと戻した。

それを繰り返して繰り返して暫く経ったその日は、やけに夕日が眩しい日だった。なぜか寂しくなってまた懐から簪を取り出す。
静はその時、やっと今日が自分の誕生日だと思い出した。


「(今日……今日、夜が来たら……)」


ずるり、ずるり。装束を引き摺る音を聞くと、なぜだか静は何かいけないことをしている気がしてならない。もし誰かにこの音を聞かれたら、逃げる準備をしているのだと疑われそうだと思ったから。
全く知らない人間が自分の部屋に侵入してきて、最初は恐怖で体が動かなかったのに、今となっては善逸が毎晩やって来るのを心待ちにしている。そんな自分の気持ちに、静は一人で首を傾げた。
ずるり、ずるり。
早く夜が来ないだろうか。そう思うばかりだった。


「こんばんは、静ちゃん」

驚くほど物音がしなかった。襖を開ける音さえも静には聞こえなくて、初めて出会ったときのように腰を抜かしそうになる。
久しぶりに顔を見せた彼は見たことも無い服を着ていて、いつもよりずっと凛々しく見えた。夜ではなく、夕暮れに来たからということもあったからかもしれない。彼は赤い光が眩しいらしく、きゅっと少し目を細めていた。

「……ぜんいつ、さん」
「静ちゃん、今から俺と一緒にここを出るんだ」

“出よう” と善逸は言わなかった。そう勧誘する前に、もうそれは決定事項だったからだ。静は驚いて二、三度瞬きをした。彼女から見た善逸は随分焦っているように見えた。

「いきなりこんなこと言ってごめん。結局最後まで本当のこと言えなくてごめん。でもおれは、俺は、静ちゃんに、死んで欲しくない。もう繰り返してほしくないんだよ」

善逸の表情は無論決して冗談を言うような顔ではない。
静はというとここから出たい出たくないとか、自分が死ぬだとかそういう問題ではなく、そもそもそれは可能なのかという疑問が湧いていた。たくさんの使用人、庭の高い塀、全てを掻い潜って外に出られるなんてできるわけが無い。ましてや満足に走ることも出来ないこんな装束では尚更だ。彼は出来もしないことをのたまっている。でも本気だ。その差に静は混乱していた。

「……ど、どういう、」
「今は詳しい事情は言えない、ごめん」
「そ、外なんて、出られるわけがありません」
「出来る、絶対。俺が全部ちゃんとするから、大丈夫。ほら、背中に乗って、早くしないと危ない」

善逸はしゃがんで静に背中を向けた。

「……善逸さん、私のこの服がどんなに重いか知らないでしょう」
「たかが布でしょ、大したことないよ」

ずるり。静が一歩進んだ。善逸は不安そうな静を明るく笑い飛ばした。真面目な顔をしたかと思えばこれだ。静が今身につけている着物は重いだけではない。今の人々が着用しているそれとは段違いに裾が長い。源氏物語の絵巻に登場している女性たちのように。だから背負って歩こうにも裾が邪魔をして満足に走れないことだろう。自分の長い髪も目障りでしかない。それを静は分かっていた。

「このままだと私は死んでしまうのですか」
「そうだよ。この先もずっと」

ずるり。また一歩静の足が進んだ。善逸の声色はひどく怯えているようだった。「この先もずっと」。輪廻転生の考え方に乗っ取れば、来世が人間でも鳥でも虫でも、それは同じことだ。

「善逸さんは後悔しておられませんか」
「するわけない」

ずるり。また一歩進んだ。もう静と善逸の背中との距離は僅かだった。善逸の声は凛々しくて、静にとっては頼もしかった。次の瞬間、善逸が背中に感じたのは人の体温と、その心臓が波打つ音だった。

「簪、しっかり持っててね」

善逸は軽いものを背負っているかのようにすっくと立ち上がった。裾は纏めて脇に挟み込んで、できるだけ垂れないようにした。静の付けている藤の香の匂いが鼻をくすぐり、後ろから垂れてきた三、四本程の髪の束が耳の皮膚を柔らかく刺激する。激しく心臓が鼓動しているのには気づかないふりをした。

「っひゃ」
「しっかり掴まってて! とりあえず山は降りる!」

がたん、庭への襖を開ける音がしたかと思えば、気づけば二人の体は宙に浮いていた。善逸が塀を飛び越えたのだということに静が気づいたときには、もうそこは彼女の知らない場所だった。後ろを見ると、大きな塀がそびえ立っている。今まであの中に静はいたのだ。

「うわ、あ」

あたりはしんと静まり返っていた。それは善逸が自分の父親にそうなるよう命じたからだということを静は知らない。嵐が来る前のように。子供が騒ぐ声も聞こえない。自分を背負い逃げている男が地面を蹴る音だけが静に聞こえていた。上を見上げると、綺麗に晴れた赤い空が見える。朝は雨が降っていたはずなのに。

「ぜんいつさん、今からどこに行かれるのですか」
「お日様のところだよ」

そうですか、静はぼんやりと日が沈んで行くのを見ながら言った。もし善逸の言う通り日に向かって行ったのなら、自分たちは光に照らされて消えてしまわないかしら、とどこか夢のような気分だった。
やがて山に入った。朝は雨が降っていたので、地面が湿っていることを善逸は知っていた。少しずつ染み込んでくる泥水が気色悪かった。顔に時折当たる葉も邪魔だった。葉に付着している露がじわじわと二人を濡らし、体温も少しずつ下がっていく。
静にはその感触さえも新鮮で、きょろきょろと視線だけをあちこちに動かした。そんなとき、葉に付いた水の玉が目に留まった。

「ぜんいつさん、あの葉の脈に着いている透明な玉はなんですか? 水晶でしょうか?」

善逸は何も答えなかった。善逸は山を降りるのに必死だったからだ。少し遠くで、十二鬼月に近い鬼の音がした。
気づかれている。追ってきている。早く、早くしないと。
静は善逸が答えるのを待っていたが、暫くすると黙ったまま、善逸の羽織をきゅっと握った。





2020.2.22