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白無垢の前日


「と、み、お、か、さ、ん」 と、寝起き特有の霧がかかったような視界の中で、俺の顔を覗き込む彼女の口はそう動いていた。俺が起き上がる素振りを見せると、彼女はほっとしたように眉を開いた。

「朝ご飯ができましたよ」

何故か小声で彼女は言う。俺が寝起きに大きい声を出されると嫌だというのを察しての行動なのだろうか。そういえば、一度寝起きに鎹鴉から指令が来て、その声があまりにも耳に障るものだから、「煩い」 と一言言ったら、傍にいた優里が随分と震え上がってしまったような記憶がある。「お前に言ったわけじゃない」 と言っても、優里は 「分かってるんですけどね」 と苦笑いをしていた。そういう所は出会った当初から全く変わっていないと思うし、いい加減直せば良いのに、とも思う。でもそれを言うと彼女が余計に怖がってしまう気がして、昔のように言えずにいた。結局は俺も昔とあまり変われていないのだろうか。

「実は早朝に魚屋の奥さんが新鮮な鰤を持ってきてくださったんです。ほら、この前注文していたはずの鰻が無かったことがあったでしょう? 『忘れててごめんなさいね』って、沢山頭を下げられてしまいました」

少し悲しそうに笑う優里。俺の妻という立場になると決まってもなお彼女のこの体質が変わることは無かった。でも柱の妻なのだと変に目立たれるのよりは断然良いと思う。彼女の大人しくて頼まれ事をなかなか断れないところに性格の悪い人間が付け込んでくるかもしれないから。そうこの前胡蝶と話しているときに少し愚痴を言ったら、即答で 「惚気ですね」 と一蹴されてしまった。隣で話を聞いていた煉獄には 「上手くやれているようで安心だ!」 と何故か肩を叩かれた。逆に上手くやれていないと思われていたことは心外である。
でも強いて言うならば、不満はひとつだけあるかもしれない。……くだらないものなのかもしれないが。

「冨岡さん、どうしました?」
「なぜお前は明日祝言を挙げるというのに俺を名字で呼ぶんだ」

えっ、と優里は目を点にして静止する。そして次はぱちぱちと瞬きを数回したと思うと、何かを思い出そうとするように顎に手を当てる素振りをした。

「……そ、そういえば、そうかも、しれません。ごめんなさい、今まで意識してなくて、」

優里は焦った様子で大袈裟に冷や汗をかいてみせた。「お前も冨岡姓になるんだろう」 と言えば、彼女の顔はぼっと赤く染まる。顔を背けられたが、綺麗に結われた髪のせいで耳まで真っ赤なのははっきりとわかった。

「では今からは義勇さん、ですね」
「そうだ」
「義勇さん」
「何だ」
「ふふふ」

顔の熱は粗方冷めたのか、今の彼女の頬は丁度良いくらいの桃色に染まっていて、とても可愛らしい。加えて嬉しそうな表情で名前を呼ばれるのは素直に悪くないと思った。

「義勇さん、今日は鮭大根じゃなくて鰤大根になってしまいますが、大丈夫でしょうか」
「……、」
「もう、そんな顔をなさらないでください。明日はご馳走が並ぶんですから。貴方の弟弟子もお祝いに来るんでしょう?」
「……それは今関係ない」

我ながら不貞腐れた子供の様だ。言った直後に自分が恥ずかしくなって、「すまん」 と言って頭を下げる。小さな声で。彼女にはちゃんと聞こえていたそうで 「いいえ、」 と首を振られた。


「……明日は、よろしく頼む」
「はい、こちらこそ」

よろしくお願いしますね、義勇さん。
少々不自然に付け加えられた己の名は、不思議なくらいに俺の気持ちを和やかにさせたのだった。



2019.8.15


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