きゅ、と手の中のお守りをありったけの力で握りしめた。神社には私の他に人影はなく、ひとり拝殿の前で祈り続ける。日は随分と傾いてしまったようで、私の足下に伸びた影はこころぼそさをそのまま映したように長く細く佇んでいた。
幸村様が明日、出陣するのだという。
私が彼のもとへ輿入れしてから初めての戦。今まで幸村様がたくさんの戦で功績を上げていることは前々から聞き及んでいることだ。けれど、不安で仕方がなかった。こうでもしていないと、私は今にも泣き出してしまいそうなのだ。
どうかどうか、彼が無事に帰ってこられますよう。
ほとんど政略結婚のようなものだったけれど、それでも幸村様は私をいつだって大切にして下さる。そんな彼に、私はいつの間にか恋情を抱いていた。今はもう、お国のためだとかそんなことをすべて忘れてしまうくらいに。
「名前殿!」
居るはずのない声が呼んだ。驚いて振り返れば、参道にかかる鳥居に手をついて浅く呼吸を繰り返す幸村様。まさか、この何百と続く階段を駆け上ってきたのだろうか。
「幸村、様……?」 「どこに、どこに行っておったのかと思えば……!」
途切れとぎれの呼吸の合間、切羽詰まったようにそう云って私のもとへと足を向ける。
「……探しましたぞ」 「も、申し訳ありません」 「いや、いいのだ。ただせめて、出かける際は行き先を告げていって下され」
どの者にでも構わぬゆえ、と安堵の笑みを浮かべる幸村様に、私の胸はひどく締めつけられた。出陣前日に心配をかけてしまうなんて、これでは元も子もないではないか。
「して、かような処で一体なにをしておられたのだ」 「その、お参りを」 「なにゆえ、そのような」 「……幸村様が、無事にお帰りになられるよう、祈っておりました」
まっ直ぐな彼に嘘なんてつけない私は、正直にここへ来た理由を告げる。幸村様は一瞬だけ珠のようなその瞳を見開くもすぐに伏せて、困ったように私の手をとった。
「手が、握り過ぎて白くなっておられる」
労るようにゆるりと撫でられて、力の抜けた手からはお守りが滑り落ちてしまう。あ、と声を上げるより早く、幸村様はそれを拾い上げた。
「貰ってもよろしいか」 「構いませぬが、」 「名前殿がこんなにも祈って下さったのだ、きっと戦は上手くいきましょう」
しかし、と幸村様は続ける。
「出陣の前日は神に祈るよりも、いつもと違わず某の傍にいては下さらぬか」 「幸村様、」 「そのほうが一等嬉しいのだが」
柔らかく笑った幸村様の、その笑顔がじわりと滲んでいく。優しいお声がなにか云うけれど、堪えられない涙はぼろぼろと零れてしまった。それを幸村様は私が悲しんでいるととったのか、途端に慌てふためく。
「なっ、す、すまぬ……! 泣かせるつもりはなかったのだ。ただ、」 「違うのです、」
俯いたまま、首を横に振って否定する。違うのです、全然。
「違う、とは?」 「う、嬉しいのです、幸村様。私は、私はなんと、果報者なのでしょう」 「名前殿、」 「こんなにも嬉しいおことばを、私は他に知りませぬ」
お顔を上げて下され、そう幸村様の温かな手が頬に添えられた。云われたようにゆっくりと彼を見上げるけれど、赤くひかる逆光が眩しくて私はまともに目を開けていることもできない。
「某とて、同じにござる」
皮膚の厚くなった親指が腫れ物に触るように、濡れた目尻をそっと拭った。ぽろりと一雫、夕陽の赤といっしょに頬を伝い落ちる。
「名前殿のお気持ちが何よりも嬉しい。しかし、出陣のその時まで、某は名前殿と……っ、」
視線が合う。我に返ったのか、幸村様はことばを詰まらせると頬や耳までをも、かあっと赤く染まらせた。夕焼けのせいにするにはまっ赤すぎるそれに、私までどくりと胸が鳴る。
「す、すまぬ。帰りましょうぞ」
結局、その先を紡ぐことをやめてしまったらしい彼はくるりと背を向けると鳥居のほうへと歩き出す。もしや、照れておられるのか。そう理解した刹那、込み上げるのはどうしようもない愛しさ。
「幸村様がそう、そう仰るのなら、私はいつだって、」
いつだって、いっしょに居とうございます。
そう抑えきれない想いを零して、夕暮れの赤に呑まれてしまいそうな広い背中を背負った六文銭ごとつかまえた。
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