※現代パロディ
どこから真実を見誤っただろう。
いつから事実を見失っただろう。
その青年デイダラは、今年の春からこの地方の芸大に進学した。
第一志望のかの有名な芸術大学。自分の個性を磨くには充分過ぎる、授業の内容も申し分ない、友人関係もすこぶる良好。
人から見れば、キャンパスライフという物を充実している様に映るであろう。それは彼自身も自負をしている。
この街には、大学へ通う為に越してきた。親元から離れ、一人で暮らすまだまだ知らぬ街。海に囲まれた島の様な陸地にあり、山の斜面を活かし家々の屋根の色が一つ一つはっきりと見て取れる、この芸大が建つに相応しい煉瓦造りの美しい街並みが特徴的だ。
今日は授業が早く終わり友人からの誘いを断って、大学から少し離れた小高い丘へとやってきた彼。
以前から気になっていて、一度は足を踏み入れてみたかった目線の高い場所。そこから見えた黄昏に差し掛かる風景は思っていた通り、やはり芸術的だった。
山吹色に照らされた建造物と、遠くに広がる地平線に沈む夕日。それに染まる橙色の大海原。夜になり始めに吹く冷たく心地良い風が耳を掠めて、心を落ち着かせてくれる。
もうすぐ太陽が消えようとしている。完全に暗くなる前に帰ろう。
デイダラはそう思いくるりと踵を返すと、ある建物が視界の端を過ぎた。
無意識に目の中に留めると、それは少し古臭い…良く言えば年季の入った店らしき建物だ。入り口の扉の上部の看板は、朽ちていて最早名前も分からなかった。
でもそこは煉瓦調の綺麗な周りに負けず劣らず、その老朽化さえもノスタルジックな芸術性を放つ、不思議な建物であった。
店の名前こそ分からなかったが、そこが何の店かは辛うじて分かった。
白いペンキで塗られた木製の扉の脇に、洒落た彫り文字でアンティークと書かれている。古い年代物の骨董品でも売っているのだろうか。
造形に関心を抱く彼の心を擽るには十二分。少し覗いていこうかと考えた、…が。
ガチャン。無機質な硬い音を立てて扉は動かなかった。不審に思って扉の硝子部分を覗きこむと、うっすらと「close」の文字が書かれた小さな吊るし看板が。
何だ…閉まってんのか。残念を含んだため息が自然と零れる。
だけど、どんな物が置いてあるのかをこの目で確かめてみたい。周りの人の有無を確認しながら、デイダラは扉のすぐ横の窓に歩み寄る。
窓の先は時間帯もありかなり見難い。沈む夕日の僅かな残光が、その中を拙く照らす。
と、そこに見えたあるものに、彼は息を飲んだ。
人……?
こちらの窓に向かって規則正しく椅子に座る、人間が一人。いや…でも分からない。
こちらに体を向けて身じろぎ一つせず、ただそこに存在しているだけにも見える。人間の形を模した…人形だろうか。
夕日の途切れそうな光に照らされたその整った幼い顔立ちは、言葉を失う程に酷く綺麗で。伏せられた瞳は長い睫毛に隠れ、それがまた…人間の物ではないと思わせる。
外見は、十代半ばぐらいだろうか。白く細い肢体は女性を思わせるが、何故か性別を決めつける事が出来ない雰囲気を漂わせている。寧ろその概念すらも超越している様に感じてしまう。そんな事などどちらでもよくなる程の…魔性の魅力に惹き込まれる。
貼り付いた様に動かない彼に対して、何の反応も示さない目の前のヒト。こちらが見えていない可能性もあるが、やはり小指の一つも動かない。
やがて、地平線に完全に沈みきった太陽が消え、屋内が闇夜に染まる頃、青年はその場から去っていった。
歩いても、歩いても、離れないその姿。
あれは生きているんだろうか。人間サイズの人形なんてそうは見ない。でもあそこはアンティークショップだ、人形の可能性の方が高い。それでも、あれが人形だとしても、あまりに完成度が高すぎる。
もしあれが命を持った人間だとすると、胸の奥が締め付けられる様な衝動に襲われた。これは一体何なんだろう。心を掴んで離さないこの気持ち。酷く高鳴る高揚感。
もっと、あの子の事が知りたい。
また、もう一度訪れてみよう。今度こそは、あの古びた扉が開くと良いのだけれど。
しかし日を越せど日を越せど、そこの扉は頑なだった。こういう店は、店主の気まぐれで開く事が多いのだろう。
なかなか訪れない機会。それでも、窓を覗くと見えるその美しい不動の姿に、デイダラはただただ心を奪われていた。長く短い十余分の逢瀬。
今日はそこに座っていたのか、昨日とその前は姿が見えなかったから。この前と服装が違う、華奢な姿に良く似合ってるな。
…あ、今日は眼が、開いている。やっと見れたその瞳。光に反射してキラキラと輝く、宝石のルビーみたいな紅い瞳。
オイラを、見ている。見つめている。でも何故か、どこか悲しげに見えるその目元。何か辛い事にでも遭ったんだろうか…。
その瞳が静かに色を無くしていく。待って、閉じないでくれ。折角オイラを見てくれたのに。でもそれは、独りでに瞼を閉じた、はっきりとこの目に映した。
あの子の命を、はじめて見たんだ。
眠る様に…いや、きっと眠っている。また夜になってしまったからか。
ゆっくり、おやすみ。また…来るから。
今度は君と、話がしてみたい。
今日は休日、大学も休み。
ここ数日、デイダラの頭からあの店の人物が離れない。すっかり虜になっている自分に苦笑いをする。
それでも、導かれる様にそこへ来てしまうこの感情は、どうしても抑えきれなくて。つい足を運んでしまう。
最早見慣れた外観。最初は夢中だった広大な風景に今や背中を向けて、彼はその一点だけを見つめる。
…やっぱりな、思った通りだ。
今日も吊るし看板が裏を向く様子がない。まるで時間が止まってしまった様なその建物を見上げ、少しの不服の念を抱かせる。
まあいいか、開いていなくともあの子の顔を見れさえすれば。第一店が開いていても、あの子が居なくちゃ意味がない。何度か姿を確認出来ない日もあった。
いつも通りに脇の窓を覗く。今日は明るい時間だから、中の様子を確かめる事に苦労した。窓にべったりとくっついてみても、あの姿を認める事が出来ない。
今日はハズレ、か。思わず盛大なため息。
日増しに想いが強くなる。それは…彼の想像を遥かに越えるくらい、ぶつけようのない悔しさが込み上げてくるぐらいに。思わず窓に目掛けて振り下ろされそうになった拳を、寸前の所で留めた。
しょうがない、用が無くなったからさっさと帰ろう。
今日は久しぶりに友達でも誘って遊びに行くかと、デイダラは携帯を取り出し、重たげに瞼を下げ画面に指を滑らせる。
と、横目で捉えたその光景に、静かに目を見開き、彼は反射的に歩みを止め数歩後ずさった。
あ…、いた、居た。
あの子だ。あの子が、外に居る。
急いで携帯をポケットに仕舞いながら、そっと店の影に隠れて様子を窺う。
店の隣りは小さな庭になっていた様だ。白のデザインチックな椅子に身を預けている。
やっぱりあの子だ。見知った綺麗な姿勢で座るあの姿。ここから見ると横の向きだが、正面から見るのと同じ様に、横顔もまた息を飲む程に美しい。
柔らかな赤髪が、穏やかな風に揺れる。また新しい綺麗な装飾の飾られた衣装を身に纏い、静寂と一体化していた。
やっぱり…綺麗だ、人形みたいに。
無意識に、己の手を伸ばす。何て声を掛ければいいのか分からないけど、先立つ想いが先行して、喉に引っ掛かる言葉にし難い言葉を懸命に出そうとする。
が…、それは虚しく喉の奥へと落ちた。
だれ、誰だ…あの男は。
突然店の中から現れた、見慣れない人間。
背の高い長い黒髪を結う男は、その子の肩に慣れた具合で手を置いて、その子に向けて何かを囁いた。
それはこう聞こえた…“寒くないか…サソリ”。
サソリ…?
それがあの子の名前なのだろうか。漸く名前が分かった。心の中で何度も繰り返す。
それでも目線は、あの二人へと送られる。
何だろう、何でだろう。変だな…嫌に喉が渇く。やっと窓越しじゃないあの子…サソリを見て、舞い上がっちまったんだろうか。気付けば胸の鼓動も速い気がする。変な汗がみるみる出てくる。言葉に出来ないこの胸の内側。
これは何だ。これは何だ。二人は一体何を話しているんだろう。気になって、気になって仕方なくて。耳を傾けて、その会話を聞く。聞いてみる。
これは…愛の囁き?でもそれとはあまりに掛け離れていて、気色の悪い言葉が聞こえてきた。
例えお前の眼が見えなくても、耳が聞こえなくても、口が利けなくても。それでもオレは、お前を愛している。
その事実は何があろうと変わらない。だから何も心配なんて要らない。
オレはどこにも行かない。ずっとお前の傍から離れない。
いつまでも、永遠に。
あの男から吐き出された愛の囁きに、愛以上の何かを感じた。
そう口にしサソリの体に手を這わせ、長い腕を絡める様にして抱きしめる…ゾクリと寒気がした。
否応なく感じ取った、愛情の裏にあるどす黒く強い欲望、歪んだ愛、異常なまでの独占支配。
そうか、サソリへの想いが深い故に、ヤツは…サソリを人形同然にしたんだ。
自分以外を見えなくさせて、自分以外の声を聞けなくさせて、自分以外と口を交わす事を禁じた。
何も出来ない事を良い事に、ヤツはサソリをあたかも自分のものとして触れている。綺麗な義眼を嵌められ、耳はただのお飾りにされて、あの白い喉の奥は潰されていて。何も抵抗が出来ない。可哀想な…サソリ。
いつしか見た悲しげな瞳は、この男の呪縛から解き放たれたいからだ。助けを求めているんだ。絶対にそうだ。そうじゃなきゃ…だって今でもサソリは、愛を囁かれても笑顔のひとつも見せないのだから。
オイラが…あの子を助けてやらないと。
それはただただひたむきな純真さで、悪者に囚われたお姫様を助け出す一国の王子様の様な、どうしようもなく穢れのない思いだった。
民家の庭先に立て掛けられていた金属製のバットが目に入る。手に取り重さを把握し、そしてまた真っ直ぐに見慣れたアンティークの店へと歩き出す。
外と庭を繋ぐ柵の扉が、キィ…と長年の錆の音を軋ませてゆっくりと開く。その音に気が付き、不思議そうにこちらを見る長身の男。
初めて姿を見せた、初めて隔てのない場所で会う事が出来た。それでもあの子は、こちらを向かない。
目も、耳も、失ってしまっているから。
疑問を向ける男がこちらに近付いてくる。この近くの子かい?それとも店を見に来たのかな?生憎あの店は閉めたも同然なんだ。誰も近付いてきてはくれないからね。
気さくで柔らかく敵意のない言葉。どちらの波も淀みはしない。ほんの一瞬だけ彼の方の波が乱れた。目に見えないくらいの小さな、小さな乱れが、彼の握りしめた凶器を音もなく振り下ろさせた。
どっと滝の様に出てくる汗。脳天を潰した感覚に手が僅かに痺れるも、直ぐに意識は向こうに向けられた。走り寄り正面に向き合う。
見知った人が手を掛けられたというのに、やはり何の反応も示さない。当然だ、この子は感覚器を削がれているのだ。目の前で何が起こったかなんて認識出来ないだろう。
瞼を閉じ、微動だにしないサソリ。おそるおそる膝の上に組まれた手に触れてみると、それは恐ろしい程に冷たかった。雪の様な白い肌もか細い腕や脚も、病気ではないかと思う程で、酷く焦りを催す、このまま…消えてしまうのではないかと。
デイダラはサソリを抱えて橙に染まる街道を走った。街中では目立つであろう服は、自分が着ていた上着を羽織らせて。軽すぎる体重は今し方初めて触れ合ったはずなのに、涙が出そうになるぐらいに心配で、必死に声を掛けていた。
絶対に救ってみせる。病院はもうすぐそこだ。
走って、走って、走って。縺れそうになっても堪えて、また走って。
「すいません、急患なんです!」
「サソリ…この子、目が見えてなくて耳も、ずっと男に監禁されてて…もしかしたら何かの病気かもしれないんだ!だから、この子を…」
「あの、キミ、冗談はよしてくれないか」
「え…?」
「キミが持ってる“それ”、人形じゃないか」
「…、なに、いって…」
彼の瞳に映るのは、死んでいる様に眠る愛する人。
無垢で美しく、嘘も真も混在する顔。
人形のわけがない、人形のはずないじゃないか、サソリは生きていたんだ。こっちを見ていた助けを求めていた。動かない体で懸命に伝えていたんだ。
人形であるはずないじゃないか!
そう医者に訴えても何も取り合ってはくれず、病院から追い出され、閉まる無情の扉を前に、どうする事も出来なかった。
息もしていない、心臓も動いていない。冷たさを纏う体は一気に硬さと重さを帯びて、デイダラの腕の中で穏やかに息を引き取ったのだ。
少なくとも、彼にとっては、それに命を感じていたのだ。誰に何を言われようとも。
彼の後ろで救急車とパトカーのサイレンが鳴り響く。彼が駆けてきた方向へと、赤いランプを照らしながら走り去っていった。
一体何が、虚実だったのだろう。
○デイダラ
普通の芸大生。人当たりが良く誰とでも直ぐに仲良く出来るが、思い込みが激しく一度そうと思った事を信じて疑わない純真無垢な性格の持ち主。気に入ったものには一途となる一方で、奪われる事を恐れ障害となるものには衝動に任せ時には常軌を逸した行為に走る事も少なくなかった。
そこに悪意や罪の意識などは一切感じず、表情はまるで子供の様に恐ろしく澄んでいた。
物語ののちに警察署で事情聴取を受けた際、自分は一人の人間を助けたかったんだと繰り返すばかりだったという。
○風影
優しい物腰と真面目さの滲む仏顔が特徴的。趣味の骨董品収集は亡き祖父の影響。
その一方でピグマリオンコンプレックスという異常性愛をもち、より人間に近い姿の人形にのみ同じ生き物として接し、性的意識を向ける傾向がある。学生時代からその節が見られ、自分では普通の事が周りからは異常と見なされ、それからは人目を憚り行為に及んでいた。
現在から数年程前、偶然にもとある骨董品店でサソリを発見。それは今までに感じた事のないどんな人形よりも強い思いが駆け巡り、いわく付きと言われても衝動のままに引き取る事となった。
亡くなった祖父に遺志を継いで小さな骨董品店を経営していたが、サソリに溺愛し趣味であった骨董品にも興味が薄れ、二人で過ごす時間を大切にしていた。
○サソリ
限りなく人間の姿に近い人形。元は遠い異国の名の知られていない半世紀もの前の造形師の作品で、その変わらない姿と一瞬人間かと錯覚する程の完成度から、彼を知る人物からは祟りや呪いの類いをもつ人形と疎まれていた。
しかしその人間の様で人間ではない美しさ故に好事家の手に渡ったが、噂が嘘から出た真となりサソリをもつ者は次々と何らかの事故や不幸に巻き込まれ、様々な人間に渡っては何十もの国の境を越えていたと伝えられている。
一般的な人形と違い外部から関節部分が見えず、それがまた人間と錯覚させる要因でもあった。この様な作りの人形は世界で見てもサソリに限り、その希少さといわくも相成り関節の仕組みがどうなっているのかは未だに謎に包まれている。
瞳は宝石を含んだ硝子製で出来ており、光が入ると星が瞬く様に美しく輝き、暗闇に沈めば長い睫に隠れそれは独りでに閉じた様にも見えたという。
憂いを帯びる表情はどこか物悲しく、人形と人間の境を悩ましく思うと評される一方で、独りの寂しさを訴える愛に飢えた者だと考える人物もいた。どんなに永く疎まれまた永く愛されても、その悲哀の表情は変わらない。彼が「人形」でいる限り、それは決して変わりはしないだろう。きっと永遠に。
しかし、先入観だったとしても自分を「人間」として見た彼の前では、ほんの一瞬だけ人形ではなかったのかもしれない。
その真実は、生涯誰ひとりとして分からないだろう。