「……、…?」


暗い海の底から海面へと浮かび上がった様な感覚の後に、オレは意識をはっきりとさせた。
立ち竦むその場所は、荒野に似た酷く殺風景な地。淀んだ空の下を流れる風は、何故か何も感じる事がない。暖かいとも寒いとも思わないこれに、はっとしそして摂理に乗っ取るが如く、痛烈に思い知らされた。

オレは現世で死んで…地獄に堕ちたんだ。
だが、ここが地獄だという事は理解出来たのに、何でか自分のこの地に堕ちるに至る理由がぼやけてしょうがない。それどころか、死んだ身のはずなのに、一度現世に生き返ってそしてまた死んだ覚えがある。
記憶が混濁してるのか。有る事無い事の区別がつかない。

オレは暫くして考える事をやめた。オレにとっちゃそれ程重要な事じゃねぇし、まあ単に思い出すのも億劫だ。

さて…この地獄の果てに独りほっぽかれて、どうした物かな…。



「サソリ」



声が聞こえた。それは、聞いた事のある声だった。
その瞬間、頭を鈍器で殴られた様な、痛みをも越える衝撃が胸まで伝う。
見開いたまま動かない瞳をそのままに、首をゆっくりと…ゆっくりと後ろへ向かせた。
何十年と昔に聞いた、懐かしささえ追いつかない感情が、胸の内をぐるぐると回る。はち切れんばかりに心臓の音が胸打つのを、目に映るヤツの第二声目で気付かされた。


「…とうとうお前も、こちらに来てしまったか」

「…、風、影……」




黒く濁る…これが噂の三途の川とやらだろう果てなく続く水面を前に、二人並んでそこへと腰を下ろした。
暫し無言の空気が漂う。ちらりとヤツの方を横目で見ると、地平線の果てを見つめて離さない顔がそこにあった。そこでふと、オレは風影のある事に気が付く。
十数年前、オレと対峙した時と何ら変わっちゃいない。姿も、服装も、最期に瞼の裏に焼きつけたその顔も…。


「…元気にしてたか、サソリ」

「…!お前、地獄で再会して、久しぶりの話の始めがそれかよ…」

「あはは、いや…ここは時間の流れを無視した場所だから、時の経過の感覚が無くなっているけど、現世はもう随分と時を経てしまったんだろう?」

「まあな…“あれ”から十年以上経ってる」

「十年以上…か」


ん…?さっきまで記憶が曖昧だったのに、今はすんなりと記憶の引き出しを開けられた。正しい記憶の修正でもされてんのか?そんな自覚は全然感じないが…。


「しかしだ…地獄って所は時間の概念がないのか。お前はもうここを現世でいうと十年以上は居る計算だが…気は狂わねぇのかよ」

「時間その物がない、悩む事も苦しむ必要も無いって事だ。ここで時間という空間は完全に無の存在…苦しむって考えはないんだよ」

「へぇ…楽なのか逆に苦痛なのか」


底の見えない暗く閉ざされた海の様に広い眼前の川。流動の窺えない空に浮かぶ斑の雲。
悪い意味でこの世とは思えないこの殺伐とした風景に、改めてオレは死んだと認めさせられる。不思議と恐怖も何も感じちゃいないが。


「サソリは…」

「あ?」

「サソリは、この川を越えたいと思うか?」

「…何でだよ」

「三途の川は、あの世とこの世を隔てる川。こちらが彼岸なら、あの向こうは必然的に此岸と考えつくのが人間だ。生きていた頃に戻れるかもしれない、欲が強く己が弱い程そう望んでしまう」

「……」

「実際、この川を渡っても現世に行き着くかは分からないし、この川の淀みの底に足を取られれば…想像は容易い」

「オレに生き返りたいなんて欲はねぇよ、死に抗う程愚かでもないしな」

「サソリ…あれから成長したんだな、何だか親の様に嬉しい気持ちになるよ」

「ガキ扱いすんなよ…もうオレ35だぜ」

「え゙っ、もうそんな歳なのか。外見に騙されるなぁ…」

「オレの大人の姿ってのが存在しないんだろ。…あ、そういやあの時…」

「あの時?」


頭の中のノイズがはっきりとなる感覚が走る。あれは…確か現世の人間が術か何かで死人を生き返らせ、そうだ…現世じゃ戦争が始まっていて、オレは駒として操られ戦場に駆り出されていたな。
段々と色々な記憶が鮮明に思い出される。


「ここに来てから、記憶が混乱してるんだよ。徐々に思い出してはきてるが、まだまだ不鮮明な所が多すぎるぜ…」

「オレの時もそうだったよ。多分、何故この場所に来てしまったのかを、記憶が混濁した状態で思い出させるんじゃないかとオレは思うんだ。生前に犯した罪を、自分自身で思い出す為に…」

「……、…そうだ!お前、何でこっち側に来てるんだよ?お前に関する記憶は思い出したが、お前がここにいる理由がない」

「そりゃあるよ」

「…っ?」

「オレは忍だ。今までに幾つもの命を奪ってきた、忍と言う肩書きをもつ者の宿命なんだろうな」

「…そうか。そういう感覚すっかり忘れてたな…」

「やだなー、すっかり犯罪者が板についてるじゃないか……」


戯けた声色から、言葉の最後が力なく消え入る様に会話が途切れていく。不審に風影の方に首を捻ると、ヤツはどこか物悲しげな表情で、河原の小石の衆を見つめていた。


「…どうした?」

「……、それに、オレはもう一つ…地獄に値する罪を犯した」

「…?」


「ある男の子を一人、この手で不幸にしてしまった」



合わさった瞳同士が絡んで、互いに時の無い空間で止まってしまった。悲しく微笑む見知った隣の顔に、はっきりとした懐かしさを感じて。
オレから先に視線を断ち切り、今度はオレが顔を俯かせる。何とも言えない表情を見られたくなくて、真っ直ぐに向き合うヤツの眼が妙な萎縮感を催す。


「サソリ、お前を…里に居られない様にしたのは、オレが原因だ」

「……」

「ご両親を亡くし、あの時最も大切な愛情が無くてはならなかったのに、オレはお前を裏切ってしまった」

「…もうやめろ」

「本当に…済まないと思っている」


地獄の風が、初めて不快に感じた。
風影と過ごしたあの頃が、生前の時よりくっきりと思い出す事が出来る気がする。
里抜けをした後は、あの頃の事など下らねぇと棄てた過去のはずなのに、本人を目の前にしたら様々な感情を思い出されて…。
風影の言う事は否定出来ない。オレはあの時…あの所為で、何も信じられなくなった。


「ここでのシステムを知っているかい、サソリ」

「え…?」

「自分の犯した生前の罪を償うのは当たり前だが、望むならば対象の相手の罪を肩代わり出来るんだ」

「……お前」

「サソリに恨みをもつ者の怨念が強く、恨みの対象者自らに償いを望む罪は、残念ながら出来ないけどね。でもそれ以外の罪は背負えるだけ…オレが引き受けた。サソリがまだ生きていた頃に」

「…っざけんな!何でそんな勝手な事しやがった、オレはそんなの頼んだ覚えは毛頭ないし、自分の尻拭いは自分で出来る。ガキ扱いすんなっつっただろ!」

「叱咤されるのは覚悟してたよ。でも、そう言われようが、これはオレが…オレ自身がやりたかった事なんだ」

「……、…クソ」


オレはコイツのこういう所が、馬鹿みたいにお人好しな所が…大嫌いだ。

極楽の真逆の死後の世界。償いにおける責め苦がどんな物かは、まだ想像の域だ。オレがこの世で犯してきた罪の代償の規模は、否が応でも分かる。
どれだけの苦痛を味わったんだろう…。


「サソリにどう思われようと、オレが犯してしまった罪は…地獄での掟よりも重いんだ。オレにとってはね」

「……オレの罪の形は、苦しかったか」

「はは、何度気絶しかけた事か。まあ実際は気絶なんて許されない、永遠に続く様な痛みが繰り返される。死なない感覚に精神がいかれそうだったよ」


オレが気に病まない様に、ここには不似合いな菩薩みたいな顔で微笑んでやがる。
その顔から滲み出る物に、オレは沸々と思い出さざるを得なかった。

オレが生前…どんなにコイツに愛されていたかを。


「どんなに苦しくても、それでも、お前の為を思うと耐えられた。許しが欲しかったからじゃない、」

「風影…」

「お前を愛していたからだ、サソリ」


「自分の身を挺して、お前を守りたかったんだ」



真っ直ぐすぎる瞳を、離せなかった。
いや、違う。体が石の様に硬直して動けなかったのは、真っ直ぐにオレを見る風影と、誰かが酷く重なって見えたからだ。その誰かは、刹那単位で脳裏を短くよぎる。

面を食らった顔のオレに、風影は暫くしてまた優しげに微笑んだ。


「か…風影…、オレは…」

「大丈夫、言わなくていい。お前の今の顔で理解した。オレの他に…もう大切な人がいるんだな」

「……っ」

「そんな顔をするな。分かっていたさ、時は流れている。お前がオレ以外の人を見つける事ぐらい、あの時覚悟していた。寧ろ望んでいたぐらいだ」

「でも、お前はオレの罪を…」

「サソリ、オレは…サソリともう一度昔の様になりたいから、恩を売りたいから、罪を被ったんじゃない。単なるオレのエゴだ。サソリは、今のありのままのお前でいてくれていいんだ」

「…ろう……」


「それだけで、オレは嬉しいんだ」


「……、馬鹿、野郎…っ……」



思えば、涙を見せるのは、いつも決まってコイツの前だけだった。

お前は馬鹿みたいに優しすぎるんだよとひねくれてみせると、サソリ程ではないよと返された。
全く…二人揃って救えないな。




「お前は、これからどうなるんだ」

「さあね、こればっかりはオレ自身にも分からない。まだまだ罰が下るのか、罪を償う終わりを迎えたのか」

「……」

「サソリ」

「!」

「お前の大切な人と、また会えるといいな」

「…フ、多分もうじき来るだろう。間違って極楽なんかに行っていない限り」

「その時は、オレに紹介してくれよ」

「お前と馬が合うかは、未知数だけどな」


そして風影は、また一つ目を細めた顔を浮かべて、吹き荒れる風に連れられ、オレの前から消え去っていった。

何も感じないはずの風が、途端に肌寒さを感じさせる。いつの間にか背に現れた、地獄の風景に溶け込んだ暗闇色の鳥居が、大きく口を開いてオレを待っていた。
…上等だ。長らく摂理に反した体だったんだ。久方ぶりの感覚を、少しでも楽しんでやるよ。

オレを飲み込まんとする強い追い風に任せ、ゆっくりとその足を踏み出した。








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