例えば朝、通勤や通学で人混みに紛れて周りの人達と同じ方向に歩いている時。
ホームでわざわざ満員電車という窮屈な時間を待っている時。
いつもと同じ風景なのに、ふと進行方向とは逆の流れに目を向けてしまう。
今来た道を引き戻ってみたら、反対側のホームの電車に乗り込んでみたら…
繰り返される毎日が、受け止めきれない退屈が、色鮮やかな何かに変わるんじゃないか


「…って、思うとき無いですか?」
「生憎ながら、ありませんね」


少し暗めの店内
挽き立ての豆と、微かなタバコの残り香が漂う空間
学生である私には少し大人びた世界
そして、その全てが似合う目の前の人


「えー、…まぁ黒霧さん電車とか乗らなそうだもんね」
「失礼ですよ。電車ぐらい乗りますとも。…まぁ久しく使った覚えはありませんが」


人…というにはあまりにも輪郭が曖昧な彼
フレーバーなリキュールや度数の高いアルコールが並んだ棚を背景に、カウンターを挟んで中身の無い会話を繰り返すのが私達の交流の仕方だ。

きっかけは確か雨の日だった気がする。
湿気った匂いに嫌気がさす中、ふと漂った珈琲の香り。周りにある茶店ではなく、真横を通った人物からだとわかった時には彼の後を追っていた。
路地裏に入り、通ったこともないビル群を抜けて辿り着いたのは古めの雑居ビル。
そのビルの上階に彼の居るバーがあった。



『…子どもが来るような場所ではないですよ』
『珈琲はありますか?』
『残念ながらここはカフェバーではありません。お求めの物はありませんよ』
『ウソ、ならなんで貴方から豆の匂いがするの?それも雨の日に香るぐらいの』
『…趣味でしていることです』
『なら、その一杯を下さいな』


不躾にも程がある、今思えば路上に放り出されてもおかしくないような出会いだった。


「そういえば、貴女は昔から礼儀を知らない方でしたね。普通、見ず知らずの男の後を付いて行って珈琲を飲ませろだなんて言いませんよ」
「懐かしい香りだったんだもの、仕方ないじゃない」
「その上、淹れた珈琲も碌に味わえない子どもでしたね」
「あの頃は砂糖とミルク無しなんて考えられなかったの」
「その砂糖とミルクがカップから溢れ出るほど入れるようでは、もはや珈琲とは言えませんね」
「失礼ね、そこまでじゃないって!」


丁寧な口調で嫌味を吐くのも彼らしいところの一つ。
この店と彼から香る豆の匂いは、大好きだった生前の祖父のものと同じだった。


「そんなに似ていますかね、豆の匂いなんて貴女からすれば全て同じでは無いのですか?」
「黒霧さん、それは本当に失礼です!私がこの匂いを間違うわけ無いでしょう!お陰でここの珈琲しか飲めないんですからね!」
「でしたらエスプレッソでもお淹れしますか?」
「あ、イエ、薄めのもので結構です」
「勿体無いですねえ」


言うと、私の座るカウンターにマグを1つ。
黒猫の柄が入った大きめのマグは私専用のカップだ。
側面の猫と同じ色をした液がタップリと中にそそがれている。
この1杯を飲んでいる間が、私がこのお店に滞在を許される時間だ。


「そういえば、何のお話でしたっけ。電車でしたかな?」
「違うって!たまには現実逃避したいなーって話!」
「ああ、…ナマエさんは逃避したいほどに現実に囚われてるようには見えませんがね」
「ええ、それどういう……まぁいいけどさ。黒霧さんは大人だから色々と大変で現実逃避なんて日常茶飯事なんじゃないですかぁ?」
「…どうでしょうね。私自身が現実離れしているようなものですから」


それは彼の外見か、それとも未だ知らぬ彼の内側のものなのか


「あの日以来、黒霧さんを街で見かけないんですけど。何か理由があるんですか?」
「…雨の日以外は外を歩きません。あの日も久方ぶりに外に出ました」
「どうして雨の日だけ?」
「雨が降ると視界が悪くなりますからね。傘でも差せば大抵の人の顔は見えなくなる。視線を気にしなくていいということは色々と都合が良いんですよ」
「…ふーん。じゃあ、あの時黒霧さんを見つけたのはラッキーだったね。お陰でこうして美味しい珈琲にありつけたわけだし」
「貴女のふてぶてしさには恐れ入りますよ」


黒霧さんにはこれ以上踏み込んではいけない見えない壁がある。
きっと彼が意図して作っているもの。それを裸足で踏み荒らすほどの子どもではないつもりだ
その壁を壊してしまえば、きっとこの非日常的なひと時を消してしまうことになる

それは私としても避けたい。
彼の入れてくれる珈琲がお気に入りなのもあるけど、黒霧さん自身を気に入ってしまった。
それは恋だとか、憧れだとか、そんな風に名前のあるものじゃないけれど…
失くなってしまうと酷く悲しくなるもの。それだけはわかっている。


「ねえ、黒霧さん。今度雨の日に一緒に出かけようよ」
「何ですかいきなり」
「んー、なんとなく。ダメ?」
「…貴方がもっと淑女らしくなれば、エスコートぐらいはして差し上げます」
「本当!?楽しみ!!」
「人の話の意図はよく汲みとるものですよ。それでは淑女には程遠いですね」
「ええ、それどういう…」
「珈琲、冷めない内にどうぞ」
「上手い具合に話逸らした!」


大人な交わし方も彼との楽しみの内
クラスメイトとはテンポの違う話し方が心地よく感じる


「先ほどの話ですが」
「ん?なんですか?」
「ナマエさんが現実から目を逸らしたいと思うのは、日常が現実の中にあるからです。日常が非現実にある者の大半は自らが何処に立っているのかも気にすることはありません。ですが、それは視界が不透明だからです。正常者とは言えぬ者達。貴女が他の道を視界に入れそれを思うということは、貴女が視界のある正常者の証でもあるということです。」
「…えーっと、つまり?」
「つまり、貴女は貴女のままでいていい、と言う事ですよ」
「うーん、難しい…」
「無理に変わる必要はない。退屈だろうと無駄な時間は無いのです。変わらないことに意味がある事もありますからね」
「今日の黒霧さんは詩人ぽいね。もっと色々話してほしいな」
「…珈琲が無くなるまではお相手しましょう」


カウンター越しに彼が高めの椅子に腰を下ろす。
今日も心地の良いひと時を過ごそう。
挽き立ての豆と、微かなタバコの残り香が漂うこの空間が似合う彼と共に



「ねえ、黒霧さん」
「はい」
「今の貴方の視界は良好ですか?」
「…そうですね」



黒霧の休息
今だけは世界が晴れて見えますよ

リクエスト:黒霧さんと普通の学生の女の子


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