不誠実な君の左手 |
高校時代妄想 リノリウムの床はあんまり走りやすくない。それに、廊下は真っすぐだからすぐに追いつかれてしまう。 俺は逃げていた。放課後の校舎は、静かとは言い難かったけれど、そんな喧騒も今は遠くの方に聞こえているだけで、ひょうひょう、と鳴る風の音が耳をふさいでいた。あとは、時折聞こえる彼の罵声と、自分の笑い声。 「てめえ、いい加減、待ちやがれえっ」 「そんなに待ってほしいなら、捕まえてみればいいじゃない」 追いかけっこはしばらく続いていた。けれど、多分この廊下で直進して彼に捕まってしまう事は分かっていた。単純な運動量なら彼の方がはるかに勝っている。一回りどころか、五つくらい上回っていそうだ。 駆ける中で、どうしたものかと頭を回転させる。窓から降りるには二階ということで怪我のリスクが高く、かといって適当な教室にもぐりこめば袋小路に追い詰められる。しかし、他に方法は無い。 現在の場所を考えると、あと少しの所にいつも窓が開けられていることを思い出した。化学室はいつも奇妙な匂いがすることから教師が開けているらしい。それはこんな真冬でも変わらない。 後ろから迫る足音と気配。きっともうすこし手を伸ばせば届く距離。その前に窓に着いたら俺の勝ちで、捕まえたら彼の勝ち。 開いた窓が見える。風が強く吹いた。多分寒いのだろうけれど、走る俺には暑いくらいだ。 あと、少し。まだ俺の制服は彼に捕まってない。足を開いて、助走をつけ、飛び込むために踏み込んだ。体を沈める。迷っているひまも、躊躇っているひまもない。 飛ぶ。 ……――けれど、後ろに。 浮遊感を感じる間もなく、俺は歯を食いしばった。 同時に背中に強い衝撃。痛いというよりも、訳が分からない。肺の中の空気が、強制的に吐き出される。 恐ろしい力で制服の襟を引かれて、無理矢理に立たされた事が分かる。いや、立たされた、といよりも持ち上げられた、と言う方が正しいだろうか。宙刷りになった爪先は惜しくも床に届かない。ぐるりと回転したと思ったら、目の前に青筋を浮かべたシズちゃんがいた。 「やっと捕まえたぜ。臨也くんよお」 彼は息一つ乱れていない。それが悔しくて、俺は息を抑えて無理やり笑顔を作った。 「ひっどいなぁ、シズちゃんは」 「今日こそは、しっかりとその息の根を止めさせてもらうぜ」 彼が笑えば薄い唇から雪色の犬歯がのぞく。このままでは危ないのでナイフでも投げつけようかと手首を捻ったとき、扉の開く音がした。 「やあ、キミタチ。今日も元気に鬼ごっこかネ」 胡散臭い話し方には聞きおぼえがあった。化学の望月だ。 教師というよりも妖怪のようなイメージで校内に囁かれる噂は両手で数えきれない。常に黄ばんだ白衣と、真っ白な長い髭。ルーペのように分厚いメガネはくすんでいて、折れ曲がった腰と小柄な体はどう考えても定年を過ぎ去っているように思えるのだがなぜか今だに化学を教えている。 「も、ちづきせんせい……」 シズちゃんが小さくつぶやいた。上手く俺から興味が逸れたようで、制服の襟をつかんでいた彼の手が緩くはなれる。ごほごほ、とわざとらしく咳きをする。 「そんな元気があるんなら、ワシの化学室の片付けを手伝ってもらえんかのぅ。平和島は全然化学の出席が足りんから、考えてやってもいいんじゃが」 ケッケッケ。 まるで妖怪じみた笑い声をたてる望月はどう考えても教師には見えない。俺は片付けなんてまっぴらごめんなので、適当な言い訳でその場をやり過ごそうと、口を開いた。 「俺は、今日は――……」 そこで、詰襟の下に来ているTシャツの裾を、つつ、と引っ張られている事に気がついた。驚いて隣を見る。 シズちゃんはらしくもなく額に汗を垂らせていた。目は凍りついたように一点を見つめている。望月の顔である。 その顔は青ざめて、ただでさえ白い顔が本当に青っぽく見えた。先ほどまで追いかけっこをしていたというのに。そして、普段とは打って変わって弱々しく指先で引っ張るシャツの裾。 それから、俺は望月の噂の事を思い出した。適当な生徒は標本かホルマリン漬けにされて望月のコレクションになるのだとかいう、バカバカしい噂である。そして、その噂で必ず付け加えられるのが、コレクションに選ばれる生徒は必ず特徴があって、極端に太っていたり、小柄だったり、 ――もしくは、極端に背が高かったりする生徒が選ばれるのだ、という。 たぶん、これは、つまり、 「なんぢゃ。折原は用事があるのかネ」 白いあごひげを撫でて、望月は言う。それに俺は笑みを返した。 「いえ、今日は暇なんで参加させてもらいます」 シズちゃんは驚いてこちらを見た。そして、俺のシャツを引っ張る左手を見て驚いたようにその手を離す。引っ張られていたTシャツには小さく皺が出来ていた。 それを少し残念に思いながら、俺は化学室に向かって歩き始める。その後ろに、遅れて彼がついてくる足音が聞こえた。 「え、っと……」 シズちゃんは何か言いたそうに言葉を探しているようだった。俺は後ろを振り返ると、 「俺が、君のためだよ、なんて言うわけがないだろう? 望月はこの学校でも古株だから、仲良くなったって別に不利益でもない。それにどうせ今日は暇だったからね。これが、俺が望月の提案を受けた理由、分かった?」 小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべて早口にまくしたてれば、少し驚いたような眼をして、彼はうなずいた。 「そう、か」 そして俺はまた前を向いた。望月はいつの間にか化学室の奥の方まで行っている。あのじいさんのどこにそんな脚力があるのか本当に不思議だ。杖をついていたって不思議ではないのに。 これからまた面倒なことをやらされるのだろう。そう思って、俺は溜息をついたら、後ろから小さな声が聞こえた。 「…………すまねぇ」 そこは、ありがとうって言うところなんじゃないの。 そう思ったけれども俺は何も言わず、もう一度溜息をついた。 小説top |