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旧校舎はどうも苦手だ。それが、旧校舎と言って思い浮かぶ人物と関係しているのかは分からないけれども。 どことなくカビ臭さを感じる廊下を臨也は歩いていた。掃除されていない窓は、白く曇って、夏の日差しを柔らげる。誰ともすれ違うことなく物理準備室に着くと、ノックをする前にその扉を横に引いた。 「失礼しまぁす」 平和島は窓を背にして立っていた。影になって、その顔はよくわからない。右手には入れたばかりだろう、湯気の立つマグを持っていた。そのコーヒーの香りがドアにまでいる臨也の鼻孔をそうっと撫でた。 「ノックをしろ。折原。扉に書いてあるはずだ」 平和島がマグを机に置いて、座る。そして一枚の紙を手に取った。その紙に視線を落としながら、まだドアのところに立っている臨也に言った。 「呼ばれた用件は分かっているんだろうな」 ざらり。また、耳の奥を柔らかく擦る声。臨也はゆっくりと歩いて机に近づいた。 「前の中間テストの事ですか」 平和島の持つ紙は答案用紙だった。けれども、本来解答で黒く埋まるところは真っ白なままだ。ただ、綺麗な文字で『折原臨也』とだけ書かれている。 「どうしてこんな白紙で出したんだ」 努めて冷静な声だ。ひんやりとしていて冷たいそれは金属的な硬さがあった。しかし、そんな声を自分は望んでいない。 「ふざけているのか。一年の時は90点以上を出していただろう」 平和島は、少し苛立ったように眉をひそめた。教師の仕事も大変なんだねぇと他人事のように思いながら、胸中で温めていた言葉を吐きだす。 「それは、」 そこで少し息継ぎをした。思ったよりもこわばっていた体には空気はあんまり入っていなくて、緊張しているのだと他人事みたいに臨也は思った。 「先生のことが、嫌いだから」 それは、臨也の中で限りなく本心に近いものだった。しかし、あくまで計算の範囲内ではあったけれども。 『嫌いだ』と言われて顔をしかめない人は少ない。しかも、そのために授業どころかテストを受けることさえボイコットしているような生徒であるならばなおさらに。 さぁ、こいつは、どんな顔をする。 「……そうか」 少しの沈黙の後、細く長い溜息が、平和島の薄い唇から吐き出された。フレームに囲まれた視線が手元の用紙から外れて窓を見る。 その顔に苛立ちの影は無い。ただ、酷く疲れたかのように見えた。溜息とともに先ほどまでのぼせ上がるように見えた苛立ちも吐き出してしまったようでもあった。 「来週の月曜日の放課後、物理室で再試だ。それには必ず来い」 息とともに出した言葉は響くことなく部屋の中に漂う。 それだけ言って、コーヒーを飲む平和島の姿に、じゃあもう行っていいからと、そんな風に言外に言われたような気がした。それに無性に腹が立った。 何故、怒らない。苛立たない。この言葉に何も言わない。 どうして納得したように溜息なんて吐くんだ。 こんな反応を求めていたわけではなかった。 「先生は、」 気がつけば、そんな言葉が口をついていた。 まだいたのかと、横目で視線が投げかけられる。それさえも億劫そうだった。臨也は挑発的な笑みを口元に浮かべて続けた。 「高校時代、金色に髪の毛を染めてたらしいですね」 レンズの奥の瞳が、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。嫌に長い睫がレンズに触れそうだと関係ないことを片隅で思う。 「それに、なんでもすごく喧嘩が強かったらしいじゃないですか」 きっと今自分はすごく嫌な笑みを浮かべていることだろう。そんな風に思いながら、止めることなく言葉を流し続けた。 「片手でサッカーのゴールポストを投げたりだとか、街の自動販売機を、」 「黙れ」 やはり酷く疲れたような、静かな声だった。めんどうくさそうで、投げやりで、どうでもよいみたいで。 けれども恐ろしく冷たい声だと臨也は思った。触れたらそこですべて凍ってしまうような、絶対零度の冷たさ。けれどもそこには人を黙らせる力はあっても、熱く沸騰するような怒りの響きは無かった。 低く、平和島は続ける。 「それは俺のプライベートだ」 細いフレームメガネはあくまで遠くを見続けている。レンズ越しの視線は、どこを見ているのか分からなかった。 「そうだろう、折原」 「はい。……すみません」 形だけの謝罪をすれば、返答の代わりにひらひらと手を振られた。 これ以上ここにいても意味がない。そう思って臨也は平和島に背を向けて物理室から立ち去った。 前 小説top |