傘の雪



※死ネタ



冬の寒い日のことだった。


牡丹雪が落ちてきた。
ひらり、ひらりと数えるほどだったものが、すぐにその花びらの数を増やして落ちる。水分を多く含んだそれは、地面を覆い隠すかのように降りてきた。その雪を見て、臨也は右手に持っていた傘をさした。黒い瞳に白い雪が反射する。筋の多い黒い傘は、臨也の黒い服とも相まって白い街から浮き上がっていた。
街外れへと向かう臨也の足取りは重かった。少し猫背になった背中と、躊躇うように地を踏む足。けれども、その歩みが止まることは無い。溜息を吐いた。臨也の白い息が、溶けていった。

きっと自分はまだ、あの日から何も、進めていなかったのだ。

歩きながらふと、臨也は思った。今まで考えないようにしていた事だった。正確にいえば、静雄が死んでしまった時からだ。悲しいほど、不思議なほどに呆気ない、若すぎた死に、上手く慣れることが出来ない。だから自分はまだ立ち止まったままだったのだろう。理解を拒んでいたのだろう。

――でも、それも今日で終わる。

人間は必ず死ぬ。世の中の理のように。ソクラテスの問いのように。それが、ただ、早いか遅いかの違いに過ぎない。戻らないのだから、いつまでも縛られているわけにはいかないのだ。
きっと、池袋の中の人間の中で静雄の死に対して一番飄々としていたのは自分だったが、同時に一番長く引きずったのも自分だ。そう、臨也は自分のことさえ分析するように思った。そう思わなければ、どこか、触ってはいけない部分にまで触れてしまいそうな自分がいた。

さり。さり。さり。

降り続ける雪は溶かされる前に薄く地面に積っていた。珍しいこともあるものだ。こんなに、雪が降っている。踏めば微かな音がした。自分が、こんな墓参りなどという殊勝な事をするからだろうか。そんな風に思って笑おうと思ったけれども、醜く口を歪めることしか出来なかった。



三年が、経っていた。
臨也は27歳で、彼は24歳のままだった。



なぜ、死んだのか。詳しく臨也は知らなかった。ただ、誰かに殺されたのだとか、事故だとかではなく、病気をこじらせたのだと人づてに聞いていた。静雄に会わない日が長く続いて、けれどもその理由を調べることをなぜか拒んでいる自分がいた。
そして、いくら医療が進歩した今でも、病気のすべてを消し去ることはできないのだと、まざまざと思い知ったのは、彼が死んだ後だった。

葬式には、多くの人が集まっていた。その最後尾に紛れるように臨也はいた。知りあいの誰かに会いたい気分ではなかった。
冬の寒い日だった。カラリと晴れた青空で、すすり泣く声に似合わない空だと思ったことを、よく覚えていた。大嫌いの彼が死んだ。憎むべき怪物が死んだ。その事に、喜ぶべきなのか、それとも自分の手で殺さなかったことに失望するべきなのか。

分からないことばかりだ。今までも、そして、これからも。



そう言えば、あの日も同じように雪が降る日だった。
けれどもその時はこんな大粒の雪では無くて、小さくて、もっと綺麗な雪だった気がする。
あの日のことが、あの日の言葉が、ぐるぐると頭の中を回った。
まだ、学生だったあの頃の、淡く光る思い出を、臨也は忘れることが出来ていない。



「何しているの、」

粉雪が降っていた。さらさらとして細い雪は、風に吹かれて舞う。
臨也の大嫌いな静雄が公園の木の下にうずくまって、しゃがんでいた。腹を抱えて俯くように背中を向けているその顔を、窺うことはできない。

「……別に、何でもねぇよ」

ぶっきらぼうに静雄が答えた。臨也だと分かっているはずなのに、顔を上げることも、立ち上がって追い払おうとすることもなかった。
白い雪が彼の、青く擦れたブレザーを汚していた。学校帰りで、今日、彼は傘を持ってきていなかった。だから、一人、静雄は雪が降り始める前にと帰ったのだった。そのはずだ。けれども彼は、学校帰りに公園でうずくまっている。

「雪、積ってるよ」

なぜかその日は、臨也は静雄を怒らせてやろう、だとか、苛立たせてやろうとは思わなかった。だからいつもの黒い傘を差して、彼の後ろに静かに立っているだけだった。

「寒いと思うんだけど」

違う、こんなことを言いたいんじゃなくて。そう思うのに、けれどもそんな言葉しか出てこない自分がもどかしく臨也は思った。普段はよく回る口も、寒さのためなのかぎこちなくしか回らない。話したかった。彼と喧嘩以外のことをしてみたかった。けれどもいざ、こうして話す機会がきても、なにを話していいのか分からない。

「何をしているの、」

何か返事くらいしてくれてもいいじゃない、そう続けようとした言葉にかぶさるように、低く掠れた声が返ってきた。

「猫が、」

慎重に、言うべき言葉を選ぶようだった。その、唐突に発せられた返事に、戸惑う。

「……う、ん」

彼が相槌以外を求めていないような気がして、臨也は小さく頷きをかえした。

「死にかけて、いて」

「うん、」

「助けてやりたくても、俺、病院とかしらなくて、」

「うん、」

「それで、街中を走って、でも、どんどんこいつの息は弱ってくし、冷たくなってくし、雪も降り始めて、どうしていいかわかんなくて、ちょっとでもあっためてやりたくて、だから、……だから、…………」

そこでぷつりと彼の言葉が止まった。
臨也は、静雄の隣に行った。金色の旋毛がのぞいていた。黒い傘を、二人の上にかぶせるように持って、彼と同じようにしゃがんで座った。

「ねぇ、猫、見せてよ」

ゆっくりと彼が顔を上げる。ぞっとするほど白い顔だった。
彼の手の中に、その猫はいた。白に、黒の斑を持って、そしてひどく不釣り合いな赤でその毛皮を汚していた。閉じられている瞳の色は分からない。苦しげな呼吸音だけが、その小さな口から洩れていた。ずっと抱きかかえていたのだろう。静雄の白いシャツにも血がこびり付いていた。

そっと、神聖なもののように、臨也は猫の体に触れた。
その体はまだ、あたたかい。けれども、

「もうすぐ、死ぬだろうね」

触っているだけで、どんどん弱っていくのが分かった。きっと、静雄だってそれくらい気がついている。理解していないだけで。

「そうか……」

そう小さく呟いて、彼は再び猫を抱えこんだ。再びシャツに血がついたけれども、守るかのように優しく抱き抱えた。
二人は何も言わずに、ただその腕の中の猫を見ていた。
この弱い生き物に何か出来たらいいのに、何も出来ない。そのことが、どうしようもなくもどかしくて、息がつまるような苦しさがあった。けれどもここから一番近い動物病院まではどう走ったところで20分以上かかることを臨也は知っていた。そしてその間に猫は死んでしまうことも。
看取ることが一番良いのかも分からない。けれども、それしか自分たちには出来ないのだ。
いつの間にか風が弱まり、粉雪はさらさらと二人の上にある傘に積っていた。

隣に静雄がいた。喧嘩もせず、何も話さず、深々降る雪の中で、こんなにすぐ近くに。そのあまりの非日常さに臨也はめまいがした。それはいつまでもあり得ないことなのだと思っていた。

それから、一分か、一時間か、そんな時間感覚さえ麻痺した時が過ぎて、ふっと猫がその瞼を持ち上げた。
丸い、金茶色の澄んだ瞳が、静雄を見た。静雄もまた、その猫を見ていた。
けれどもその時間は一瞬で、そしてくたりと力を失った猫は、静雄の腕の中で横たわった。

「…………死んだ」

凛とした声が、人気のない公園に響いた。小さな声のはずなのに、その言葉は臨也の耳の奥で幾重にも反響した。
静雄の白い顔は、前に見た時よりもさらに白さを増して、金色の髪と相まって今にも雪に溶けて、猫とともに消えてしまいそうだった。そんなことありえるはずがないことなど分かっている。それなのに急に不安になった臨也は、傘を持って立ちあがった。

「お墓を作ろう、シズちゃん」

それからしばらくして、静雄はゆっくりと立ち上がった。その目はただ、死んだ猫を見ていた。
けれども立ち上がってから動こうとしない静雄の手を引いて、木の裏にまわった。そこからもう少し奥に行って、柔らかい地面の所に行くと、傘を静雄に持たせて臨也は何の躊躇いもなく土を手で掻いた。冬の地面は堅かった。臨也の、綺麗に整えられた爪が、小石に当たって割れた。粉雪が体を覆うように吹いた。痛い。冷たい。寒い。けれども、なぜかその手を止めようとは思わなかった。
しばらく土を引っ掻いていれば、辛うじて猫を埋められるほどの穴ができた。

「シズちゃん、こっちに来て」

静雄を呼ぶと、その間中ずっと立っていた彼は、よろよろとしたおぼつかない足取りで臨也のもとに近づいた。

「猫を、下ろして」

そっと、優しく労わるように静雄は猫を、穴の中に寝かせた。穴には薄く雪が積もって、まるで灰色の布団にでも猫を寝かせたかのようだった。
そっと臨也は黒い土を猫の上にかぶせていった。白い毛皮にも、黒い斑にも、等しく土は被さって行った。
だんだんと姿が見えなくなることに、鈍い痛みを感じだ。埋葬することが、こんなに痛い事を臨也は初めて知った。
埋め終わればそこはただ、猫が埋まっているというよりも、ただ土が盛り上がったところにしか見えなくなってしまった。

「……あの、猫。」

静雄が話し始める。
頷きも相槌も返すことなく、臨也は静雄の言葉を聞いた。

「血を流しながら、路地裏を歩いてて。一匹で、もう、ボロボロなのに、それなのに一生懸命で。それが、なんか、俺みたいに思えて、だから、助けてやりたかったんだ。…………本当に、助けてやりたかったんだ……」

ぽたり、と熱い雫が一粒、雪を溶かした。



その時の涙ほど、綺麗なものを、臨也は見たことが無かった。
時が経って、記憶の中で美化されているのかもしれない。けれど、それでも、永遠に忘れることが出来ないのだろう。そして、もう、二度と見ることはないのだ。涙を流した彼は死んでしまったのだから。
あれから、臨也と静雄はもう、二人で話すことも無く、変わらない喧嘩ばかりの日常を繰り返して、そして幾つもの季節を繰り返してきた。
何事もなかったように再び始まった日々に、静雄の中であの日のことをどのように位置づけているのか、臨也は知る由も無かったし、知りたくもなかった。

まだ、臨也の中で、あの日のことはどう扱っていいのか決めあぐねていた。
忘れてしまうべきだと諭す自分と、忘れたくないと叫ぶ自分と。
けれどもいつものように、殺意をぶつけ合う日々に追われていると、そんなことを隅に追いやることができた。忘れたふりをして、嫌いな彼にナイフを向けていた。
それなのに、それなのに彼は死んでしまった。




墓地に着いた時も、冬の花のような、そんな雪は止むことはなかった。
あの日と同じ黒い傘を持って、臨也は静雄の眠る墓へと向かう。
思い出に立ち止まって、しがみ付いて、そんな醜い事をしているのは、彼のこともまた、いつかは忘れてしまうのが嫌だからだろう。それがなぜなのか、まだ、知りたくない。
彼の墓は、隅の方にひっそりと建っていた。ありきたりでどこにでもあるようなそんな墓を見ていると、死がよけいに浮ついて、ふわふわとどこかへ飛んで行ってくれそうな気がした。けれども、この下に、彼が眠っている。

何を話したらいいのか、話せばいいのか、よく分からない。だって目の前にあるのはただの冷たい墓石で、くすんだ青いブレザーを着た彼でも、サングラスをした彼でもないのだから。

長い沈黙が過ぎた。重たい雪が、臨也の黒い傘と、墓石の上に積っていた。
言いたいことはたくさんあったはずだった。いつも彼を見ていた時は、必ずどうでもいいような言葉が口から勝手に飛び出ていたのだから。小さく口を開けた。冷たい空気を吸った。けれども、吐き出しても、何の音もその喉を震わせることはなかった。

左手を堅く握る。その手には、あの日小石で引っ掻いた傷はもう無い。爪が皮膚に食い込んで、冷たくなった手のひらに微かな痛みを与えた。

どさり、と重たげな音を立てて、傘の上から雪が落ちた。
躊躇うように何度か口を開いては、閉じて、そして、やっと呟きが、沈黙を引っ掻いた。

「……ねぇ、なんで」

死んだの。死んでいるの。どうして俺を殺さずに死んだの。病気なんかで殺されているの。こんな地面の下なんかにいるの。
なんで。なんで。なんで。

俺を置いて、死んだの。

一度口を開けば、続けたい言葉はいくらでも出てきた。けれど、それらの言葉が無意味なのだと臨也は知っていた。何かを続けれる言葉を、臨也は持っていなかった。
再び落ちた沈黙。空気の音が痛いほど鳴った。
やはり来るべきではなかった。そんな思いを臨也が持ち始め、踵を返そうとした時だ。

「にゃあ」

唐突に、猫の鳴き声がした。
誰もいないと思っていた臨也は、驚いて後ろを振り返る。
向かいにある墓の上に、猫が立っていた。四肢をまっすぐにのばして、こちらを空色の目で見ていた。真っ白な猫だ。今にも雪に溶けて消えてしまいそうなその体に、黒い斑は見えない。それなのに何故か重なるそれは、まるであの日の猫にあってしまったかのようなそんな錯覚を抱かせた。

「あ、……」

無意識に手を伸ばせば、白猫はひらりと音を立てずに軽やかに跳んで、すぐにどこかへ消えてしまった。それこそ、溶けるように。
臨也は猫が消えてしまってからも、その走り去った後を見ていた。
足跡を、雪が隠していく。そして隠してしまってからも、その名残を探すかのように、ずっと見つめていた。

「……ああ、そうか」

錆びついていた胸が軋んだ。それは、懐かしい痛みだった。


さよなら、


ため息ともつかない音が、そんな言葉を作った。
その言葉を送ったのは、走り去った猫になのか、あの日の死んだ猫になのか、それとも彼になのかは、臨也にも分からなかった。





BGM by ネイティブ/ダンサー
010704












小説top

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -