溶かされる |
※中学生時代注意 頬に触れる枕の冷たさに目を覚ました。 枕が濡れていた。どうやら俺は泣きながら眠ったようだ。中学生にもなって、泣くなんて馬鹿らしいことだと思っているけれど、気がつけばいつも枕が濡れていた。 ゆっくりと体を起こす。強張った背中がぎしり、と痛んだ。症状はただの筋肉痛だったが、その痛みは普通の何倍も体を襲う。 ぎしぎしぎし。 ギシギシギシギシギシギシ。 軋む音が聞こえてきそうで、俺は歯を食いしばり痛みをこらえた。両手はきつく握りしめすぎて青白くなっている。 破壊をしつくした後、リミッターを超えた俺の体は簡単に壊れる。小学生の時のように毎回のように入院するほどではなくなったものの、中学に入ってもその痛みは消えることなく、そして成長痛と相まってよけいに体を蝕んだ。 「ッ……、クソッ」 誰に吐き出すともなく悪態をつくと、今度はしっかりと体を起こした。枕もとの時計を見れば、午前2時を指していた。丑三つ時だ。家に帰ってから、疲れて夕食も食べずにそのまま眠ってしまったからか空腹で腹が鳴った。 二段ベッドの下に降りるくくり付けの階段を探せば、頭のすぐ上に木目調の天井があることが分かった。ということはつまり、俺は二段ベッドの下で寝ているらしい。幽のベッドを占領してしまっていたようだ。上ではきっと、俺の布団にくるまった幽が寝ているのだろう。 申し訳なさで一杯になる。いくら疲れているとはいえ、今まで弟のベッドで眠ってしまったことは無かったのに。きっと幽は俺が自分の布団で眠っている所を見ても、起こさないようにしてくれたのだろう。そんな弟の優しさに胸が熱くなった。 子供のころ、俺が怒りで我を忘れて冷蔵庫を投げようとするまえ、幽とベッドの上か下かで喧嘩をしたことを思い出した。どちらも上がいいと言って、殴ったり蹴ったりして、最後には母親に怒られて、じゃんけんで決めることになっんだっけ。 そして勝った俺が上のベッドで寝る権利を得た。 ――そういえば、あの頃は普通に幽と喧嘩ばかりしてたな……。 最近はほとんど表情を見せなくなってしまった弟のことを思いながら、ベッドから足を下ろす。ひんやりとしたフローリングの冷たさに一瞬驚いたが、そのまま勢いよく立ちあがろうとした。しかし慣れないもので、ごん、と大きな音を立ててベッドの裏天井に頭をぶつけてしまった。脳が揺さぶられるような痛み。たまたま今日殴られたところにちょうど当たってしまったみたいで、あまりの痛さに目の端に涙が浮かぶ。 床にうずくまり頭を押さえて呻くいていたら、ガサゴソと動く音が聞こえた。 「あにき……?起きたの?」 振り向けば、幽が眠たげに目をこすってこちらを見ていた。 「……おう。幽は寝てていいぞ」 「いい……。僕も起きる……」 そういう幽の語尾はすでに消えかけていて、本当は眠いのだと教えていた。俺は苦笑しながら立ち上がってベッドの上にいる幽に近寄り、手すりにもたれかかる。最初に見た時はあれほど大きく感じていた二段ベッドなのに、もう俺よりも小さくなってしまっていた。夢と現実の間をさまよっている幽は、まだ一生懸命に目を擦っている。 そんな弟が愛らしくて、自分よりも大切な存在だと思えた。 「いいから。お前は寝てろよ」 力を込めないように、優しく髪の毛をかき回す。幽の細い髪の毛が俺の指に絡まった。 「ん……。分かったぁ」 そう舌足らずに言って、幽は寝ぼけ眼を二三回瞬くも、ふと何かに気がついたように半分閉じた目で、俺の顔をじっと見た。 「どうした?」 頭を撫でていた手を止めて尋ねると、幽の小さな手がゆっくりと俺へ伸ばされる。子供の熱いくらいの体温が、俺の眼尻をそっと触った。 「あにき、また、泣いてるの?」 そう言われて、俺は何も返事をすることができなくなった。 ――泣いてなんかいないよ。 そう否定することは簡単なのに、もしくは、さっき頭をぶつけたからとか、そんな言い訳なんていくつでも思い浮かぶのに、俺の口は話す事を拒否したかのように動かなかった。 俺が泣いているのは、夢の中であって。流した涙は、すべて幽の枕が吸い取ってくれて。 だから今俺の頬には涙の跡なんて残っていないはずだった。はずなのに。 ――どうして。 急に動きを止めた俺を不審に思ってか、ぺたりと幽の右手が俺の左頬に当てられる。 久し振りに感じた人の体温はとても温かかった。そんな温もりを忘れてしまうほど、誰にも触れることがないのだと思った。 誰もが俺を怖がって、近寄るどころか、ましてや触ろうとする人間なんていなくて、でもこいつだけは、幽だけは俺に触れることを躊躇わない。 「あにきは、泣き虫、だ」 そう言って、幽は柔らかく笑った。それは俺が久し振りに見る幽の笑顔だった。ふにゃりとした笑顔と、皮膚に伝わる温かさで、目の中に残っていた涙が一筋、溶かされて頬を流れた。 小説top |