いざ進まん



静雄はいつも、臨也の服の裾を摘んで意思表示をする。

そっと黒いシャツの裾を、その白い小さな指で引っ張るのだ。そしてその事に気がついて後ろを振り返れば、恐る恐るといった風情で臨也の顔を見上げてくる。
「……あ、の……」とか「え、えっと……」とか視線をうろうろさせながら一生懸命に話そうとする姿は、どことなく自分が悪者にでもなってしまったような錯覚に陥らせて、臨也は大変居心地が悪い。

しかも名前を呼ばないのだ。
お兄ちゃんとも臨也とも、なんとも呼ばない。その前に会話が少ない。何を話しかけても、首を上下左右に微かに振るか、ほんの短い単語をゆっくりたどたどしく話すか、それだけ。

一緒に暮らし始めてから早一ヶ月。
いくら慣れないからと言ってもいくらなんでも、もう少し自分に慣れてくれてもいいだろうに。
臨也は少々複雑な心境を抱えながらも、腐れ縁の闇医者に相談を持ちかけた。

「きっと、臨也のことが怖いんじゃないかな」

さして自分と人生経験の量も質も違うことはないだろう新羅が、まるで断言するかのように話す事を臨也は好きではない。そして、部外者だからこそ分かる、とでもいう風に嫌に核心をついた事を指摘する所も。

「やっぱり、そうかな……」

そして、自分でもうすうす感じていたことだからよけいに痛い。

手のひらの中のコーヒーが入ったマグを覗けば、暗い水面が臨也の顔を映していた。目の下にはうっすらと隈が見える。眠れていないわけではない。けれども取れない疲れが溜まっている。

「どうしろっていうんだよ……」

こぼれた呟きは、コーヒーの中に溶けて消える。
臨也が怖がられるように仕向けたわけでも、そう演技したわけでもない。ただどうしようもなく静雄に怖がられてしまっただけなのだ。そして子供の扱いに慣れていない臨也には、そこからどうしたらいいのか見当もつかなかった。

臨也は、普段ならばそんな面倒な人間には関わらない。嫌う人間は早々に諦める。
それなのに、どうしてそこまであの子供に固執するのか。そう自問自答したところで、答えがすぐに見つかっていたらきっと問題はもっと簡単になるのに。

「それは自分で考えるべきじゃあないかな?」

けれども頼みの綱であった新羅は、臨也の独り言を一蹴すると、空になったマグを持ってキッチンの方へ行ってしまった。
文字通り、臨也は頭を抱えた。ため息しか出さないその姿に、新羅は首を振って声をかけた。



「ねぇ、どこか行きたいところはある?」

臨也はそう尋ねる自分が少しためらっているのが分かった。
“どこかに出かけたらいいんじゃない?”
先刻の闇医者の言葉を思い出す。どこかへ、出かければいいのだ。一緒に出かけることで自然に会話だって増える。
――けれども、どこへいけばいい。

「…………」

案の定子供はその小さな頭を俯けて、じっと足元を見ているだけだ。なんのアクションもない普段通りの行動に、普段ならば溜息しか洩らさなかったけれども、その日は臨也の口は閉じられることなく続いた。

「……黙ったままじゃ、分からないよ」

ポロリ、と零れた本音が少しきつめの言い方になってしまったのは、苛立ちが疲れで抑えられなかったからなのだろう。
こうして黙してばかりの人間を臨也は苦手だ。むしろ嫌いだと言ってもいい。沈黙は金だという諺もあるが、しかしここまで話さなかったら一体どうやって意志の疎通を図れというのか。

「それに、大体君は人の名前を呼ばないし」

そもそも会話をしない。けれども、その中でお兄ちゃんだとか何も言わないのはどういうことか。人見知りかもしれないが、それでもいい加減自分の存在に慣れてほしい。これからの生活をいったいどうしろというのか。
つらつらと頭の中に言葉が浮かび上がってくるものの、喉から飛び出す前に少し冷静になれた。
こんな子供にぶつけてどうするのか。
自分が行いたいのは、子供の教育でも世話でも子守でもなく、円滑な人間関係を築き上げて、その適度な距離のままで生活をしたいだけ。不満をぶつけてしまえば、そんな関係を結ぶ可能性は限りなく低くなるだろうに。

「……だって、――……、――……」

「え?」

ぼそぼそと何か聞こえた。それが子供の声だと気がつくのに一瞬の間。

「だ、って……名前、まだ知らな、い……」

小さく吐き出すように、言葉を切りながら話す少年に、そう言えば、自分はまだこの小さな子供の前で自己紹介をしていなかったことに気がついた。色々考えていた自分が一気に馬鹿らしくなって、そして初対面の時にちゃんと名前を言ったつもりになって名前を呼んでほしい、なんて思っていた自分が全部悪いではないか。シャツの裾を引っ張ることがすべての意思表示になっていたのだろう少年の心境は、あまり想像したくない。

「俺の名前は、折原臨也っていうんだ」

臨也がそう言えば、静雄はたどたどしく口の中でその言葉を繰り返した。

「……お、りはら、……いざ、や……」

「まぁ、なんて言ってもいいけれど。そうだなぁ……臨也お兄ちゃんとか、お兄ちゃんだけでもいいけど。そう言えば、下の妹は昔、にーに、って俺のことを呼んで、……」

そう言う途中で、言葉ををぴたりと止めた。
しゃべり過ぎた。こんな風にこの子供の前でべらべらとしゃべり続けたことは今まで無かった。
“人見知りする子っていうのは、なんにでも怖がるものなんだよ”そう言っていた友人の言葉を思い出す。前よりは少しは意志の疎通ができるようになったものの、こんな風に急に一人で話している大人は普通に考えて余計に嫌がるものだろう。

恐る恐る下にいる子供を見る。きっと自分のことを怖がって縮こまっている、そう思ったのに、出会ったのはブラウンシュガーの髪の毛の隙間から見える赤く染まった小さな耳。うつむいて、何かをつぶやいているようだった。耳を澄まして何を言っているのか聞きとろうとする。

「……いざ、や、おにいちゃん。……にぃ、に……」

耳に飛び込んできたのは、そんな小さな声で。
嬉しそうにゆっくりとその名を呼ぶ子供の姿はどうしようもなく、愛らしくて。

――ああ、困った。
適度な距離、なんてもので、きっと自分は我慢できそうにない。

もっと早く自分からいろいろ話しかけていればよかった。後悔したところでこの一か月が戻ってくることはないのだけれど。

「よし、今日はどこにでも君の好きな所に行こう」

そう言えば、恥ずかしがり屋な少年は、はにかんだ笑みを臨也に向けた。











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