スカーレットのゆりかご |
※静雄が病んでいる キッチンにある包丁を持って、手首に当てた。 ひんやりとした切っ先を押しあてれば、微かに皮膚がへこむ。包丁を押しあてたままで勢いよく引けば、ぱっくりと割れたところから赤い血が溢れ出した。それは鮮やかな色を持っていた。 薄暗いキッチンの中でそこだけが輝いて見える、生命の結晶。 たらたら。たらたら。 止まることなくシンクを汚す赤を見つめていた。 不思議とまったく痛みを感じることはなかった。 ただ、どうしようもなくその流れ出るものに安心していた。 「……また、やっちまったな」 自嘲する小さな呟きは、無意識に微かな笑いを浮かべた口から洩れる。 家族がちょうど出かけている時で、ひっそりとした静けさがあたりに漂っていた。 蛇口をひねれば透明な水が赤色をすべて洗い流していく。 そのまま流水を傷口に当てれば、焼けるように熱かった。 けれど、その痛みはもう慣れ切ってしまったものだった。 初めてリストカットをしたのは、中学一年生の時だ。 「リストカット」なんて名前を知ったのはもっと後なくらい、なにも知らずそして馬鹿だった。自分自身のことで手いっぱいで、そして死んでしまいたいと強く願った時だった。自分で死のうとする方法なんてそれことドラマとかでよく見かける手首を切るということしか知らなかったからやっただけ。 そしてドラマでよくありがちなシチュエーションとしてお風呂場でやったら、真っ赤な血が水の中にゆらゆらと漂った。それはとても素敵な事に思えた。 けれども、その時は幽に見つかって、いつもとは違う理由で病院に行った。そして両親にものすごく怒られた。幽にも泣かれた。 ああ、自分はこの人達に愛されているんだ。大切にされているんだ。 血が抜けて、薄く霞がかった頭でそう思った。 けれどもそれはすべてガラスを隔てた向こう側での出来事のような、そんな風しか感じられなかった。どうしようもなく近くて遠い言葉は、まるで一度録音されたものを再生しているかのように現実味がなく耳に入りこむだけだった。 次はもっとうまくやろう。そうすれは、きっともうこの人達に迷惑をかけることもないだろう。 騒がしい世界から逃げるようにそうに思って、左手に残った後を触った。 青臭い理由であったけれども、これが俺を深淵に引きずり込んだ最初の理由だった。 今思えばそれは自分で自分の位置を確認していたのだろう。 自分自身が、罵倒の言葉で言われている「化け物」であるのか、それとも「人間」の範疇にいるのかどうか。 不安だったのだ。 周りの物を見境なく壊していく自分は、本当に人間であるのかどうか。そんなことさえ分からなくなるほど壊して、壊して、壊しつくしてきてしまった。物も、人も。 血が固まってうっすらと膨らんだ瘡蓋を、こじ開けるようにしてカッターナイフを当てて。 繰り返し、繰り返し、繰り返し、切り裂いて、切り裂いて、切り裂いて。 手首はあまりにも目につきやすい場所だから、それからは二の腕や太もも、ふくらはぎや肩を切って、そこから流れ出る赤色を見て、やっと実感できる。 ――ああ、まだ俺は人間なのだ、と。 そして自分の場所を確かめなければ、生きていけなくなってしまうのは時間の問題だった。死のうとしていた手段が、生きるために確認する作業になっていた。 もはや痛みに慣れ切った脳味噌には、切る痛みなんてあってないようなもので。だから、俺は痛みでは無くてその純粋な赤に一時の安らぎを求めた。 恐ろしいまでの回復力を持った体はそんな傷を家族からすべて覆い隠した。 幾度となく瘡蓋を切ったのに、何も跡が残ることなくすべて綺麗なままだ。だからこそ、誰にも知られずに続いていく。 皮肉なものだ。そんな体のせいで、人間か化け物かの区別さえつかなくなったのに、そのお陰でこうやって誰にも止められることなく傷をいくつも作ることができたのだから。 家族に見つかってからは自分の部屋の中でカッターナイフを使い、切り傷を作った。 もちろんプールなどに入る季節は傷をなるべく作らないようにしていたし、体育の時、ジャージから見えるところには傷はつけなかった。もっぱら太ももやあばらなどだ。そしてたとえ見つかったとしてもまさか自分で切っているなどとは思われることはない。喧嘩をしなかった日など数えるほどしか無かった時だから、すべて誰かに傷つけられたことにしてしまえばよかった。 そして俺はその歪んだ環の中から抜け出す術を、見失った。 その芳醇な甘さに、その煌く赤さに、溺れていたのだった。 小説top |