夏雲 |
※高校時代妄想 爽やかな風が、窓の隙間を通り抜けて教室に入り込んだ。夏の匂いを風が運ぶ。 教室の中は眠りこけているものや、教師に見つからないよう隠れながら携帯電話をかまっているもの、逆に真面目に黒板をノートに写しているものなど、様々な事をしながら生徒たちが午後の授業と受けていた。 「…………が、利己心のために…………、という言葉から…………」 年配の教師は注意をするわけでもなく、黒板に文字を書きながら文章の説明を繰り返しているだけだ。 静雄も大多数の生徒と同じように、教師の長々とした話を聞き流しながら、窓側の席という利点を生かして外を眺めていた。 教室の窓からは、太陽に照らされたグラウンドの様子がよく見える。短距離走をやっているのか、何本も白線が引かれた近くにジャージ姿の生徒たちが集まっていた。臙脂色の短パンに白いTシャツがまぶしく反射する。 そんな生徒の集まりの中にある、見慣れた黒髪。他にも短髪で黒髪の生徒など腐るほどいるというのにすぐにあいつだと分かってしまった自分が憎らしい。体育をやっているのは臨也のクラスのようだった。その姿を見つけた途端に、窓の外なんか見なければよかったと静雄は後悔した。 苦い想いを噛みしめながら、グラウンドから視線をはずして黒板の方を見れば、けれどもしばらく集中していなかった内容にすぐに追いつけるはずもなく。机に広げられた真っ白のノートが目に痛い。 小さくため息をついて、門田に後でノートを写させてもらおうと思いながら、静雄は再び肘をついて窓の外を眺め始めた。 グラウンドにいる臨也の周りには、2,3人の生徒が集まっていた。何やら会話をしているようだ。教室から見ている静雄に気がつくことは無い。その横で、他の生徒が走り始める。ぼんやりと静雄はその様子を見ていた。 あ、笑った。 臨也の白磁の肌に映える赤い唇が、緩やかに持ち上がる。きっとその間からは揃えられた白い歯がみえているのだろう。その笑みはまるで自然で、いつも静雄の前で見せるような、すべてを見下したような歪んだ笑みとは全く違っていた。臨也があんな風に笑えるものなのかと、静雄は驚く。 ――もしも、あいつがいつもああやって笑っていたら……、 と、そう考えていたところで、背中を軽く叩かれた。 「お前、次に当てられるぞ」驚いて後ろを振り向けば、門田が小声で囁く。慌てて静雄が教科書をめくると、156ページの3行目だと、呆れたように言われた。 「平和島、次」 教師に名前を呼ばれて静雄が立ち上がった。門田、本当にありがとう、と内心で感謝の言葉を返しながら、教科書を朗読していく。 「二人は各自の部屋に引き取ったきり…………」 静雄の声が、教室中に響いた。 そして、教科書の文章に集中していた静雄は、そんな自分の姿が窓の外から見られていた事に最後まで気がつくことはなかった。 「何を見ているんだい?」 背後からそう尋ねられたのを聞いて、臨也は振り返った。青い空、白い雲。小学生に描かせた絵みたいに単純な背景を携えて、新羅は立っていた。 「ちょっと視線を感じてね」 答になっていないことは知りつつも、再び視線を戻した。勝手に一人に視点が合わさる。その、長身を真っすぐ伸ばして立つ姿は自然と人の目を集めるようで、それがすごく、嫌いだ。 「へぇ、静雄かい」 君もたいがい、懲りない性格だね。と、苦笑いしながら新羅は言う。どうやら、臨也の視線を追って、気がついたらしい。 微かな陽光にも反射する金色の髪と、筋張った細い顎に、光をを知らぬ白い肌。その目はただ、教科書に向けられていた。横顔しか見なくても、多分、この学校の生徒ならみな気がつく人物は、何やら立たされて朗読しているようだった。やはり、嫌いだと、臨也はその姿を小さく認めて思う。 ざわりと風が吹いた。そこに、夏草の涼やかささえ感じるようで、臨也は目を細める。 体育の時間は好きではない。熱いし、蒸されるし、肌が焼ける。今日は100メートルの測定だった。いつもの追いかけっこで体力も筋力も人並み以上にはある自信があった。けれど、絶対に、彼には追いつけない。 「ほら、次、臨也だよ」 新羅に呼ばれてやっと視線を外した。白線に向かう。そこにはすでに、一緒に走る他の生徒が並んでいた。 「よーい」という教師の掛け声で、膝をつく。砂粒を膝に感じる。 前を向けば、青。彼のブレザーよりも明るくて純粋な青。 ぱん! とはじける音がして、臨也は駆けだした。一歩、白線を大きく超える。最初は体を低くして大股で、それからはただひたすら駆ける、駆ける。足を前に出して、地面を踏んで、また、前に。何も考えない。思考も景色と一緒に横へ流れて、ただ一点だけに焦点は合わさる。青い空、白い雲。そこには誰もいない。誰もいないけれども、何故だか、誰かが見える気がした。 いつも、追いかけている、追いかけてくる、あの、青い――……。 気がつけば、ゴールの白線を越えていた。それから速度を落として、ぱたぱたと緩く走る。 「5秒、9」 タイムが呼ばれた。誰に何を言われようが、そんな数字に意味は無いことを臨也はもうすでに知っていた。だって、彼は、それを越えたところにしかいない。はあはあと荒い息を小さく吐く。 嫌いだ。自分を軽々と追い越してその上さらに先を行くだろう、彼が嫌いだ。まるで、永遠に届かないように、錯覚するので。 もう一度臨也は校舎を見た。けれど静雄はもう席に着いてしまったのか姿を見つけることは叶わなかった。 臨也に笑ってほしい静雄と静雄が嫌いだと言い聞かせる臨也 小説top |