名前は、無い



恋、というものが短い間の思慕の情だとすれば、これは時間が経ちすぎていた。そして見返りを求めないことを愛とするならば、この感情はかけ離れ過ぎている。
だとすれば、この感情に名前を付けるとすれば、


「……なんなんだろうな、」

静雄はつぶやいた。
今日も夜遅くまでかかった取り立てが終わり、事務所での伝達と休憩を兼ねて上司と共にビルの中に設置された喫煙室で煙草を吸っているところだった。暖かな気候の時は、もっぱらビルの屋上が喫煙室代わりとなっていたが、冬が過ぎ、春と言ってもそれでも夜はまだ寒い。だからこうして滅多に使うことのなかった喫煙室の常連となっているのだった。
小さく言った言葉は自嘲の響きをもって耳の中で木霊する。思わず苦笑いがこぼれた。きっとそんな些細な仕草は、部屋の中にいるもう一人には気づかれてはいないだろうけれど。

片思いなど片手では数えられないほど繰り返してきた。年上の女性の穏やかな仕草に憧れることもあれば、同級生の軽やかな四肢に惹かれることもあった。しかしそれらは全て叶うことなく自分の心の中で腐敗して、そして消えて行った。愛することが罪なのだと初めて知ったのはいつだったのか。最初から叶うはずもない思いなど、すべて消えてしまえばいいと思っていた。

新しい煙草を取り出して火をつける。
まるで自分の心を覆い隠すかのように。さびしい口元をごまかすかのように。煙を吐き出せば何かも一緒に吐き出せるような気がした。行方不明な感情も。醜いエゴも。すべて。静雄が吐いた煙は換気扇に吸い込まれていくが、なぜか部屋は煙たいままだ。

こんな風に誰かからの愛情を渇望することなどとは、あの頃は考えてもみなかった。自分一人だけの世界だけで精いっぱいで、周りはただどうしようもなく手の届かないところなのだと諦めていた。遠くかけ離れた存在だからこそ、自分が想うことを許されるのだとおもっていた。
だから、戸惑う。呼吸するように相手からの優しさを吸いこんで吐き出す。暖かいそれは、あまりにも優し過ぎた。だからこそ、期待してしまう。希望を持ってしまうのだ。隣にいる人は、少し手を伸ばせば届くところにいつもいてくれるから。だから。

――自分一人だけを愛しくれるかもしれない、と。


「トムさん」

静雄は事務所のソファーで一服している先輩に声をかけた。振り返る彼の横顔は連日の深夜にまで及ぶ取り立てのためか、疲れているように見えた。目の下にはうっすらと隈がある。きっと自分の目の下にも同じようなものがあるのだろう。そんな疲れているときの一服は憩いの時間だ。それを、わざわざ振り向いて、自分との会話のために一時中断してくれたことを嬉しく思っている自分がいた。内心の感情を押しつぶすように、静雄はまだ長い煙草を揉み消した。

「明日の取り立て、どうします?」

あやふやな問い。それは答えを明確に求めているわけではなかった。ただ、彼からの返答を求めているだけだった。

「そうだなぁ……」

そう答えるトムの声もどこか心もとない。ふぅ、とトムが吐き出した煙も細く大気中にたなびいた。

「最近、遅くなってばかりだから、午後からにしてもらえるか、所長に聞いてみるか」

彼の細くて長い指が煙草を挟んでいた。薬指に嵌められた指輪が鈍く光る。それがまぶしくて、静雄は眼を細めた。


穏やかな時間だった。変化など、求めてはいなかった。
ただ、こんな風にどうでもいいような日常を大切にしながら彼の近くで歩むことができたら、それでいいのだと繰り返した。

こんな醜い感情を何と呼べばいいのか分からない。それでも、あの人の隣にいることを許される今だけは、名前を見つけてしまう前だけは、ただそのぬくもりの中でまどろむことを誰に願えばいいのだろう。




トムさんは既婚者








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