リズムの最果て |
どうしようもなく惹かれた。 風に巻き上げられて柔らかく舞う髪の毛に触りたくて、涼しげな目元をずっと見ていたくて、細い腰は折れてしまいそうだと思った。 それから、後悔した。 自分がそんな風に思ってしまうのが、認められなかった。そんな思いを抱くことに嫌悪した。気色悪かった。 万人を愛するということは、つまりは誰も愛さないこととニアイコールで結ぶことができる。 そんな自分自身が認められないからこそ、俺は自分が一番大切だった。 自分の事を愛さないで他人を愛することができるわけがない。 だから、代わりに彼を嫌いになればいいと思った。 思い切り傷つけてやった。彼の弱い部分を。もろい部分を。ナイフで。 好きな子はいじめたくなる、と言うけれどそんな可愛らしい感情ではなかった。確かに俺の心の中には彼に対する憎しみがあった。彼が俺を嫌いになれば、このどうしようもない胸の痛みは落ち着いてくれるのだと、頑なに信じていた。 けれども違った。この胸の疼きは止むことを知らずに、しつこく痛むばかりだった。甘い疼きではなく、まるで病気のようにジクジクと抉るような痛み。自分に吐き気がした。 「シズちゃんなんか、死んでしまえばいいのに」 繰り返し、繰り返し吐き出される言葉。それは俺にとっての免罪符なのだった。 「シズちゃんに出会わなければよかったのになぁ」 ある日俺は、面と向かって彼に言った。笑っていた、と思う。いつものようにニヒルに、そして世の中に絶望したような笑み。その笑みに呼応するように、シズちゃんもまた、青筋を浮かべた顔で、凶悪に笑う。 「ハッ。そっくりそのままお前にお返しするぜ。イザヤくんよぉ!」 その言葉と同時に、シズちゃんの拳が後ろに勢いよく引かれ、それを振り下ろされる前に大きく後ろに下がってよける。冷たい汗が頬を伝って下へ落ちた。いい加減逃げたい。けれど、なかなか今日のシズちゃんはしつこくて、20分以上こうして追いかけっこをしていた。 普通だったら、隙をみて壁を伝ったり、そこら辺の物を障害物にしたりして逃げるのに。運が良いのか悪いのか、辺りには人の気配すら感じられず、静かな通りには俺の味方になってくれそうなものは無い。夜の9時。大通りから少し外れた人気がない路地で、彼は拳を振るい、俺はナイフを振るう。周りにめぼしい道路標識や自販機が見当たらないのが幸いだ。 会いたくて出会ったわけではなかった。 たまたま、仕事帰りだったシズちゃんが何を思ったか遠回りして帰ろうとして入った道に、俺がいたという、それだけの話。俺も方も仕事帰りで依頼主に会ってきた帰りだったから、本当に不意打ちだった。 一瞬だけ周りがフリーズする。シズちゃんと俺の距離は約1メートル弱。 そして始まった喧嘩。一方的にシズちゃんが俺を殴ろうとしてくるだけだ。俺は断じて喧嘩なんかしたくはない。面倒くさい。まあ、シズちゃんをからかうのは面白いけれど。 もちろん俺だってやられっぱなしではなくて、ところどころシズちゃんのバーテン服に向かってナイフを振るう。でも皮膚が薄く切れるだけで、シズちゃんには出血らしい出血も見つけられなかった。 この前のようにサイモンが現れてシズちゃんを止めてくれないかな、と他力本願な願いを頭の片隅みで思うけれども、サイモンはロシア寿司にいて接客をしているはずで、空から降ってくることはあり得ないことを、俺は十分理解していた。 再び迫る拳を、ナイフの側面で横にずらすようにしてかわす。シズちゃんの、男にしては細い腕が少し切れたのが分かった。傷口から血が飛ぶ。その隙に、大きく後ろに下がる。 シズちゃんから流れる赤い血は、それだけ彼が俺の愛する人間なのだと証明しているようだ。シズちゃんは化け物なのに。忌々しい。 「早くシズちゃんが死んでくれればいいのに」 本当に早く死んでしまえばいい。消えてしまえばいい。 そうすれば、俺はもっと生きやすくなる。 「その前に、お前が死ねっ!」 今度は右からの顔面を狙った回し蹴り。間一髪で体を後ろにそらせて、よける。そのまま体をひねらせて肩を狙うが、切ったのは白いシャツだけだった。 運が悪い。本当に今日は運が悪い。 ひっそりとたたずむ電灯の光に、シズちゃんの髪の毛が反射してキラキラしていた。それはあまりにも綺麗だった。電灯の光を背にして、逆光になったその表情は、暗くてよく分からない。 シズちゃんが拳を振り上げる。俺がそれをよける。そしてその隙に、俺はナイフを振るう。シャツが切れる。その繰り返し。単調なリズム。 でも俺は20分も神経を擦り減らし続けることに、疲れ始めていた。少しずつ狂っていくリズムの行先は、俺にとってあまりよくない結果が待ち受けているのだろう。 と、背後から馬の嘶くような声が聞こえた。空耳かと思えば、だんだんその音はこちらに近づいてくる。 どうして彼女が。 彼女と新羅の住むマンションはこちらとは別の通りで、運び屋の仕事の帰り道なら全く反対の向きのはずだ。予想外のことに油断して、確認するために思わず後ろを振り返ってしまう。 そのために腹部を狙った蹴りに反応するのが遅れた。 「ぐぁッ……」 殴られるのは初めてではなかったけれど、こんな強烈なものを受けたのは久しぶりだった。腹を守るように屈めた姿勢のまま体が浮き上がり、そのままの衝撃で後ろに数メートル飛ばされる。 たぶん自分はアスファルトの地面に叩きつけられるだろう。そして、その衝撃で反応できない間に、シズちゃんに殴られている、という姿が一瞬のうちに目に浮かぶ。 しかし俺を受け止めたのは堅いアスファルトではなく、もっと柔らかなものだった。セルティがバイクにまたがったまま、俺を全身で受け止めている。バイクごと、ずるずると数十センチ後ろに下がるのが分かった。 地面に乱暴に下ろされる。足腰には異常はないようだったが、あばら骨のあたりに激痛が走った。もしかして折れているのかもしれないが、それより今はシズちゃんから逃げる方が優先だ。 乗れ。 言葉で言われたわけでなく、もちろんPDFを見せられたわけでもなかったが、そう言われたような気がした。急いでバイクの後ろにまたがった。振り返る時に、キラリと光るものを眼の端でとらえるけれど知らないふりをした。あばらが痛むが、奥歯を食いしばる。 「邪魔するんじゃねぇ!セルティ!」 シズちゃんが吠える。ほんの数メートルの間を此方に向かって駆けだしていた。 馬が嘶く。それと同時にシズちゃんのいない方に向かってバイクが走りだす。 次第にシズちゃんとの距離が離れていった。もしかしたら、この20分の戦いは俺だけに疲労を与えたのではなかったのだろうか。それとも、セルティが俺を助けたからか。 黒いライダースーツにつかまりながら、俺の心はなぜか不自然に跳ねたままだった。シズちゃんから逃げられたことに安堵しているのかもしれない。 そして、瞼の裏で反射する金糸を、俺は痛みと一緒にかみ殺した。 セルティが連れてきたのは、彼女のマンションの前だった。荷台から降りて、壁にもたれかかる。息が荒かった。セルティもバイクを止めて、俺と向き合う。 「よく、あんなところが分かったね」 運び屋の仕事帰りでもあそこの路地を通るはずがない。それだけに、俺の理解できない彼女の行動は、俺を苛立たせる。 『たまたま路地を見たら、静雄とお前が喧嘩していたから』 「ふーん、でも普通は俺を助けないじゃない。どうして俺を助けたの?」 苦労して作った笑顔を張り付けながら、セルティに問いかける。彼女には俺を助ける義理も何もないはずだ。新羅だって、助けるように頼みはしないだろう。 セルティはカタカタとPDFに返事を打ち込んで、その返事を見せた。 『あのまま静雄がお前を殺したら、静雄は悲しむだろうから』 単純にして、明快な答え。俺は腹の底から笑いたくなった。 柄にもなく俺はあの時死の危険を味わった。あのままだったら死んでいたかもしれない。セルティはそんな俺を、シズちゃんのために助けたのだ。死にかけていた俺を。 たぶんセルティは俺じゃなくても助けただろう。それか妖刀を振り回す女子高生であっても。ストローハットをかぶった尻軽な男であっても。 少しでもシズちゃんに関わりがあって死にそうになっていたら。 なんという友情なのだろう。 「ハハ、ここでシズちゃんのためだっていうのが、セルティらしいね」 笑ったら、骨がキシキシと傷んだ。それにさえ、笑いがこみ上げてくる。 『笑ってないで、早くマンションに入れ。どうせ骨の一本や二本折れているだろう』 どうやら俺の強がりは、デュラハンにはお見通しのようだった。その言葉に甘えることにして、あばら骨をなるべく動かさないように、ゆっくりとマンションの入り口まで歩いていく。 きっとこの傷が癒えるまで、シズちゃんの前に姿を現すことはできない。池袋に来ることさえままならないかもしれない。その間、俺は傷が痛むたびに、彼のことを思うのだろう。胸の疼きと一緒になった、この痛みで。 シズちゃんになんか、出会わなければよかった。今夜だって、高校生のときだって。最初から。そうすれば、こんな痛みも持たずに生きていけるのに。 そんな、どうしようもない想いを抱えて、俺は今日も運命を呪う。 小説top |