無意味じゃない |
※幽の過去ねつ造 幼いころ、俺は幽という名前が嫌いだった。 理由は簡単だ。いじめられたからだった。 子供の世界は弱肉強食で、背も小さく力も弱かった自分は格好の餌食となり、そしてそのいじめの中でも俺の名前は嘲りの一つとなっていた。 「こいつの名前、めっちゃ影が薄いって意味なんだぜ」 「うわ、めちゃくちゃぴったりじゃん」 「兄ちゃん言ってたけど、ユーレイの漢字なんだってよ」 「気持ちわりぃな」 「えーっ、何それコワっ。本当にこいつにぴったりだな」 兄貴が近くにいた時は、すぐに兄貴が周りを殴って喧嘩になった。そんな兄がいたからか、俺にちょっかいを出すような奴らはだんだんといなくなった。 だからといって名前を気に入れるわけがなかった。いつも答案用紙に書く名前も、教科書に名前を書いてもらう時もひらがなだった。それさえも書くことが嫌になる時もあった。どうして両親は、もっと別の名前をくれなかったのだろうかと恨んだ。 本当に、この名前が大嫌いだった。 かすか、と呼ばれるたびに、書くたびに、自分の存在が薄くなって、それこそ幽霊みたいに消えてしまうようなそんな馬鹿な妄想を抱いていたのかもしれない。 けれどもそれは、兄貴が辞書を持って俺に話しかけてくるまでのことだった。 「なぁ、かすか! 知ってるか!」 「今日、学校で辞書の引き方を習ったんだけど、漢字辞典でかすかの名前を調べたんだ。かすかの名前には、“おくぶかい”とか“ものしずか”って意味があるんだぜ。静かなんて、俺の漢字と一緒だよな」 「かすかの文字はすごいんだぞ。なんてったって、“おくぶかい”なんてかすかにぴったりなイメージだよ! かすかは底知れないすごい男なんだからな! きっと周りのやつらなんか目じゃなくって、将来俺よりもすごい人間になるんだぞ。絶対に!」 重たい辞書を振り回しながら、兄貴は俺にそう一生懸命に説明した。子供だから、漢字辞典に載っていた言葉のすべての意味が分かったとは思えなかった。なんといってもその時の兄貴も俺も小学生だったのだ。 けれども、それがあまりにも一生懸命で、顔を真っ赤にして話すものだから、俺は思わず笑ってしまった。そして俺につられたのか、兄貴も笑い始めた。二人で、なぜかどうしようもなく面白くて、笑い続けた。 笑いすぎたのか、俺の目からは一筋涙がこぼれた。 それからは、普通に幽、と漢字で名前を書くようになった。兄貴と一緒の意味を持つのだというその名前を、俺は誇らしく思えた。芸名を考える時も、この漢字だけは入れてほしいと頼みこんだ。それくらいこの名前は大切なものになっていた。 だから、いつも思う。今の俺がこうやって多くの人の前に立っているのはすべて兄貴のおかげなのだと。 「兄貴」 「どうした?」 「……俺の兄貴で、ありがとう」 「ん。どういたしまして」 そう言って兄貴は笑った。穏やかで柔らかな笑みで、この人が本当に池袋最強などと物騒な名前で呼ばれているのだろうかと、疑問に思う。 ――だって、こんなにも、優しい人なのに。 きっと、俺は兄貴を追い越すことなんて一生かかっても出来ないのだろう。 小説top |