優しさは本能ではない



※高校生妄想





あ、まただ。

そう思った時には、もう喧嘩は終わっていた。いや、喧嘩と名前の付くようなものではない。あれは、一方的に吹きすさぶ災害のようなもので、俺の様な一般人には手の出しようのないものだ。見つけたときにはもうすでに終わっていて、そうして、周りに散らばる幾人かの男たちの間にただ一人、あいつは立って、肩で、大きく息をしている。

今日はたまたま、教師に頼まれて手伝いをしていたから帰るのが遅くなってしまった。けれど、遅くなってしまっただけで、体育館の裏を覗いてみるような趣味を俺は持ち合わせていない。バキンと、金属の何かが折れる音とはっきりとしない声がそこから聞こえて来たからだ。
きっと、いつものように、あいつがそこにいるのだろうと。

そうして今日もまた、そいつは肩を震わせて、こちらに背を向けていた。
泣いて、いるのだろうか。けれど俺から見えるのは、風に揺れる金髪だけだった。夕暮れに赤い太陽がそれを赤銅に染めていて、それがとても綺麗だと思った。そうしてそれから、錆びた鉄の匂いに、そいつの拳から血が流れていることに気が付く。痛そうだ。

周りの奴らを起こさないように気を付けながら、俺は近づいた。

「静雄」

驚いたように、そいつは、静雄はこちらを振り返った。泣いているのかと思えばそんなことはなく、目は腫れてすらいない。自分と同じくらい体格の良い男が泣いているだなんて、どうして思ったのだろう。

「手、貸せ。応急処置してやるよ」

そうして右手を差し出せば、けれどゆるやかに首を振って静雄は拒否をした。

「いや、……こんな傷、唾でもつけとけば治る」
 
小さな声だった。少し風が強くなれば、消えてしまいそうな声だった。そんな奴が先ほどまでここに倒れて居る体の大きな上級生を一方的に殴りつけていたことが、何かの幻のようにさえ感じられた。

「いいだろ、別に。ただの応急処置だ」

強引に静雄の腕を掴めば、けれど易々と振りほどけるそれを、静雄はしようとはしなかった。従順なまでに、俺につき従って歩いてくる。本当に、先ほどまで喧嘩していた人物と真逆に思えて、不思議な気分だった。

少し離れた暗がりで、俺は鞄から消毒液と絆創膏を取り出した。静雄は又、何か硬いものでも殴りつけたのか、指の関節のところが赤く擦り剥けて、血が垂れていた。バットでも殴ったのかもしれない。酷く痛そうだと俺は思うのに、消毒液で洗っても、静雄は顔をしかめることなくぼんやりとそれを眺めていた。絆創膏を張り付け始めたところで、その顔が、どこか申し訳なさそうにうつむくのを見て、俺は笑ってみせる。

「これくらいさせろよ。お前が心配なんだから」

静雄は瞬きを一つして、それから目を伏せた。

「……門田は、優しいな」

本当に優しいやつなら、お前にこんなことはさせないよと、そう言いかかった言葉を押し込めた。きっと頭の片隅で、自分の利己的なことを理解していたからだ。

「お前はもっと、甘えるべきだ。周りの人間に」

一つ一つ、絆創膏を貼っていく。赤い傷が隠される。静雄の指は、白くて細い。無骨な自分の指とは違っていた。

静雄の周りの人間なんて、数えるくらいしかいないことなど、俺はとっくに知っていた。静雄の弟に、新羅に、そして俺くらいしか。臨也は頼ることなんてできないどころか、むしろ嫌いあっている仲だ。たった三人。それが多いのか少ないのか、俺には判断できかねないことだったけれど、それでも、たとえ十人だろうが一人だろうが、静雄は満足に甘えられないのだろうと思ってしまった。俺の不躾な言葉に、控えめな笑みだけを返すような静雄は。

甘えさせてやりたいと思う。もっと、頼ってほしいと思う。そうして、優しくしてやりたいと思う。
けれどその感情は、全て、友人を思うだけの事ではないのだと、俺はすでに知ってしまっていた。

「ほら、出来た」

両手の関節に、茶色の絆創膏を貼ったそれは、変なメリケンサックでもつけたみたいでなんだか可笑しい。俺が笑えば静雄も釣られて笑った。
手当をすること。されること。笑いあう事。普通の会話をすること。

優しさってなんだ。

静雄の言葉が、魚の骨のように、違和感になって喉の奥に残っていた。

優しいって、何なんだ。

お年寄りに席を譲ることだろうか。拾った財布を交番に届けることだろうか。そんなことは親切であって、マナーであって、優しさなどではないと言われてしまえばそれまでだ。
じゃあ優しいっていうのは、親切やマナーとまた違うのか。

けれど、もし、俺のこの行為を『優しい』と言うのなら、きっと優しさは、醜い。

「わりぃな、門田」

「おう、帰ろうぜ」

歩き始めれば、もう夕焼けなんてとっくに終わっていて、辺りはもう夜に入りかかっていた。静かだなあと思う。学校に残っているのは、部活の片づけをしている熱心な部員くらいだろう。遠くで犬の鳴き声がした。

隣で歩く静雄と、そう盛り上がるような話はしない。ただ歩いていくだけだ。けれどそんな時間が、俺は嫌いではなかった。

「あ、一番星」

ふと静雄が足を止めて、そうして空を指差した。その指には、俺の貼った絆創膏がのぞいている。視線をたどれば確かに、月の斜め下辺りに、瞬くような明るい星が一つ見えていた。

「そういや、一番星に願い事すると叶うんだってな。どっかの本で見た気がする」

俺の呟きのどこにツボったのか、隣で静雄が吹き出した。笑い声が辺りに響く。

「門田が願い事とか、似合わねえな」

「お前、ひでぇな。俺だって、願い事の一つや二つ、あるかもしんねえだろ」

「門田が似合わねえこと言うのが悪い」

けらけらと、明るく笑うそれはただの普通の男子高校生だった。確かに、180近くもあるやつが一番星にお願いごとだなんて似合わな過ぎて、自分でも笑えてくる。

些細な事で、下らないことで、笑いあっている内は、あの皮膚の剥けた傷も、金属の折れた鈍い音も、何も関係の無いところに居るような気がした。夕焼けなんてあっという間に終わって、もう辺りは藍色の夜に包まれていた。それが何だか胸を締め付けるようで、上手く呼吸が出来なかった。

この一瞬が永遠になればいい。

歪な優しさを抱えた俺は、ただ、心の奥でそう願う。

ああ、どうか。





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