彼が煙草を吸う理由



彼とすれ違った時、きつい煙草の香りがした。
臨也は鼻がよく効く。だから、そういった変化に敏感だ。

「別に、俺の家で煙草を吸うな、とは言わないけどさ」

臨也は持っていた携帯をかまうのを止めて、眉をしかめてみせる。
静雄はそんなことどこ吹く風とでも言うかのように、ソファの上で変わらずに煙草をふかしていた。猫のように大人しい。ぼんやりとしている顔は何を考えているのかがよくわからないが、どうせ今晩の夕食とかだろう。

「ちょっと最近吸いすぎじゃない?」

もう何本もの燃えさらしの灰が、灰皿に溜まって小さな山を作っている。
以前だったら、彼が煙草を吸う時というのは苛立ちを抑えるためだった。けれど、今は、静雄が何かに苛立っているようには見えない。何かあったのだろうか、静雄が煙草を吸いたくなるようなことが。仕事か、家族か、はたまたプリンのことかな。臨也の頭には仮説はいくつか浮かぶものの、どれも決定打に欠けていた。

「何かあったの?」

尋ねたところでやっと、静雄は横目でチラリとこちらを向いた。唇に挟んでいた煙草を指で挟んで、とんとんと灰を落とす。視線が臨也から離れて灰皿へと向けられた。伏せられた睫毛がとても綺麗だ。

「別に、何もねぇよ」

嘘だな。
臨也はそう分かったけれども何も言わなかった。

「あ、そう」

そっちが何も言うつもりのないなら、こっちから触れてやる義理は無い。
臨也は再び携帯をかまいながら、静雄の元から離れて、デスクに座った。クッションが、仕事に疲れた体を柔らかく受け止める。そのまま片手で携帯を操作しつつパソコンを立ち上げた。クライアントにメールを送ってから、そろそろ期日の文章を作成し始めないといけない……。これからの予定を頭に思い浮かべながら、臨也は一つ一つそれらを片していく。
機械的にこなされていく作業に、だんだんと意識から静雄のことが離れて行った。ただ、画面にばかり集中する。

「……なぁ」

だから、静雄の呼びかけにも最初は気が付かなかった。

「なぁ、臨也」

二回目で、やっと臨也はパソコンから意識を切り離した。

「え? ん、なに、シズちゃん」

「俺達、別れないか」

臨也がパソコンの隙間から静雄を窺えば、彼は新しい煙草に火をつけている時だった。静雄の視線は煙草に向かうばかりで、相変わらず臨也に向けられない。

「え、なんで?」

今まで彼との間で何かトラブルがあっただろうか。タイプする手を止めて、過去をさらってみるけれども、いちいち細かなところで衝突してきた記憶しか見つからなかった。以前よりは穏便な関係になったとしても、彼は時折グラスを握りつぶすし、それが臨也のお気に入りのグラスであったりするのだ。

それでも、そんな些細な喧嘩を彼が気にしている素振りはなかった。少しばかり言い争いをして、でもそんな言い争いに飽きたらまた元通り。だった、はずなのに。もしかしたら、自分が些細なことだと思っていた何かが、彼の琴線に触れたのだろうか? そういう素振りを、自分に見せることなく? あの、単純な彼が?

思考が頭の中を駆け巡る中で、臨也は静雄の手元に目を向ける。まさか、小言を言われずに煙草を吸いたい、なんてそんな理由からじゃないだろうな……。

「別に、大した理由じゃねえけど……」

口ごもる彼はためらっている様子だった。何にためらっているのか。理由を言うことに、それとも、別れることに? 
バーテン服の胸倉を捕まえて問い詰めてやりたかったが、臨也の体は余りに深く椅子に沈み込んでしまっていた。これで、二日連続して徹夜なのである。そんな中の静雄の発言は、したたかに疲労の溜まった臨也のみぞおちを殴りつけた。
 どうせ強引に理由を聞こうとしたところで、余計にこじれるだけだろう。そういったことを臨也は経験則で知っていた。

「……分かったよ、シズちゃん。ちょっと俺達、距離を取ろうか」

溜め息と共に言葉を返せば、静雄はちょっと驚いたようにこちらを見た。なんだよその顔、君が言い出したことじゃないか。そう皮肉を込めて言ってやりたかったが、それはただの仕事の八つ当たりだと分かって飲み込んだ。

「まあ、好きな時にこの部屋に入ってくれても構わないし、寝場所として使ってくれても大丈夫だからさ」

彼も少し経てば頭が冷えるだろう。それに、時間を置けば静雄の中でわだかまる問題が解決されるかもしれないし。臨也はそう楽天的に考えていた。

「……そうか。お前の考えは良くわかった。明日にでも、この部屋の荷物は持ってくから、それまでは置かせてくれ」

「ん、分かったよ、……って、え? なんで、シズちゃんの荷物持ってくの?」

「別れるんだろ。俺達はもう他人同士だ。他人の部屋に荷物を置くのは変だ」

「いや、でも、その、ちょっと距離を置くだけじゃないの」

「距離を置くって別れるってことじゃねえのか。何が違うんだ?」

「シズちゃん、待って、納得がいかない。どうしてそうなるの。もし俺に何か問題があるならいくらでも言ってくれて構わないから」

「……これは、俺自身の問題なんだ」

静雄は、少し俯いてそう言った。もう短くなった煙草を灰皿に押し込む。それからまた、新しい煙草に火をつけると、ゆっくりと吸う。その仕草は滑らかなのに、ちっとも美味しそうには見えない。
彼自身の問題。となると、仕事の話だろうか。それとも、俺以外の人間関係だろうか。どちらにせよ、それを彼ひとりが抱えて置く必要はないはずだ。

「じゃあその問題を二人で解決するのが、恋人っていうものじゃないの?」

この言葉のどこが、きっかけになったのか。
静雄は急に臨也へ顔を向けると、鋭く睨みつけた。そんな視線を受けるのは何だか久しぶりで、以前の事を臨也に思い出させた。まだ青かったあの頃。名前を付けられない感情にばかり振り回されていた、あの頃のことを。

「じゃあてめえは何だ。一緒に居るのにこの一日、ほとんど相手しねえじゃねえか。こうやって放っておくのが、恋人っていう関係だって言うのかよ! 今日だけじゃねえ、ここ最近ずっとだ! いっつもいっつも携帯とかパソコンとか、そういうのばっかりかまいやがって!」

めずらしく静雄が怒っているのに、物が飛んでくるという事は無かった。
なんだか、顔が赤い。耳も少し赤い。怒っているから上気している、だけなのか、……それとも、

「……シズちゃん、もしかして、俺にかまってもらえなかったのが寂しかった……とか?」

そう言うと、静雄はばつの悪そうに顔をそらせて、再び胸ポケットから煙草を取り出した。
ああ、そうか。彼は恥らっているのだ。そういう自分と折り合いが付けられなくって、でもその感情は行き場が無くて、だから煙草を吸うことで紛らわせていたのか。そのことにすとんと納得してしまって、だから、なんだかこんな単純なことに言い合っている自分達に、笑いが込み上げてきた。
ははっと急に笑い出した臨也を、静雄は怪訝な目で見やる。

「シズちゃん、あのさ、黙ってたんだけど、俺がここ最近仕事が忙しかったのは、ちょっとした休暇を取りたかったからなんだよ」

静雄の休みの日を聞いて、その時のサプライズとして準備していたそれを臨也はあっさりとばらしてしまった。サプライズで普段の関係まで悪くなるのは、やっぱりいただけない。

「休暇届の期限は、明日までだろう? 今から一緒に予定を合わせて、どこか旅行にでも行こうか」

彼はそんな臨也の言葉を、またびっくりした顔で聞いていた。

「二人で、どこにでも行けるよ。北海道でも沖縄でも。海外……は、ちょっと相談しなきゃいけないけれど。シズちゃんはどこに行きたい?」

「……温泉」

ちょっとすねた顔をして彼はつぶやく。
どうやら許してもらえたようだ。

「え、夏に? 温泉はやっぱり冬じゃない」

「冬は混むだろ」

「夏の温泉はちょっとなぁ……」

「じゃあお前はどこがいいんだよ」
 
そんな他愛もない会話を二人は繰り返す。
静雄の手には、いつの間にか、ちびた煙草。臨也は椅子から立ち上がってそれをつまみあげるとそのまま灰皿へ押し込んだ。なぜなら、彼が煙草を吸わねばならない原因は、もう無くなってしまったので。













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