信号機



※旧仮名遣い注意
※読みにくい





信号機を前にして、臨也の足は止まつた。

信号は緑色だつたが点滅を始めてゐる。今なら、まだ向かうへ渡ることも出来るのだらうが、しかし臨也は動かなかつた。そして考へる。どうして俺はこの信号を渡らなければならないのだらう。
臨也は学生で、そして今日は高校の入学式が行はれる時だつた。池袋といふ街において普通の極平均的なその学校に通ふことは、臨也にとつては以前からの決定事項だつたはずである。それなのに、臨也は信号を前にして立ち止まつてしまつた。

臨也が考へてゐる間に、信号機は緑から赤へと変はり、白線の上を車が通る。この道を通らなければ学校へと行くことは叶はない。そのことを臨也は頭では理解してゐたが、しかし彼の足は頑なに一歩踏み出すことを拒んでゐた。

彼の目の前を、一台の自動車が横切つた。それは黒い車だつた。霊柩車のやうに真つ黒だと臨也は思つた。彼は、誰かが霊柩車に乗つて火葬場に運ばれていくことを空想した。そしてその車の中に居る人物についても又想像した。次に横切つたのは赤色の小さな車だつた。臨也はそれをトマトが転がつてゐるやうだと思つた。彼は野菜が嫌ひで、そしてトマトも例外ではなかつた。けれども赤は比較的好きな色だつた。

そして、さう想像してゐる間にも時間は過ぎて行つた。また、信号機が赤から緑へと変はる。周りの人々はその合図で一斉に歩き出した。その中で一番前に立つてゐるのに止まつたままの彼を怪訝な目で見る人も中にはゐたが、皆、目的を持つてゐたので忙しく向かう岸へと歩いて行つた。
もう、自分は歩き出せないだらうと臨也は思つた。退屈であるはずのそこへ行くことは、彼にとつて全く生産性を持たない行為だつた。行かない、といふ選択肢を前にして臨也は思案してゐた。しかし本当は、それは思案してゐる振りをして本当は初めから分かつてゐたことをなぞる行為だつた。

又、信號機は点滅を始める。人々はまばらになり、臨也のやうに立ち止まる人もちらほらと居た。今ならまだ、入学式の受付に間に合ふだらうが、ギリギリな時間だ。そのことが彼の頭の中に、ふつと浮かんで消えた。

その時、金色のものが彼の隣を通り過ぎた。それは、彼が思はずはつとするやうな金色で、彼はそれを追ひかけて走り出してしまつた。捕まへようと手を伸ばしたが、ぐんぐんとその金色は駆けて行つて、臨也もまた走らなければならなかつた。流れるままに速さは増した。臨也はもう金色に向かつて走ることだけで精一杯となつた。

どれくらい走つただらうか。気がついたら、横断歩道も信号機も通り過ぎて、ずつと走り続けてゐた。さうして高校の前に着いてゐた。それ時やつと、金色は立ち止まつた。臨也もまたその後ろで止まつた。臨也はその金色は金色の髮だといふことに気が付いた。隨分と高いところにある金髮だった。見上げるやうにしてその頭を見てゐれば、金髮が後ろを振り返つて彼を見た。まだ若い男だつた。少年と青年の間に居るやうな男だつた。

「お前も、新入生か?」

怪訝な目をしたその男は臨也に尋ねた。

「さうだよ」

「さうか」

それで、その男は何事か納得したのか、臨也に背を向けて歩き出した。臨也もその男を追ひかけるやうに歩き始めた。隨分と広い背中だと思つた。その背には臨也と同じく黒い色をした学生服があつたけれども、男のそれはくたびれて所々がほつれてゐた。
校門の左側にある体育館へと男は向かつてゐた。ざわめきが聞こえた。きつと、あの中に新入生が居るのだ。さう思ふと臨也の足はまた立ち止まりさうになつたが、男はずんずんと歩いていくものだから臨也は止まることも出来ずに引つ張られるやうに歩いてゐた。受附には二人の女学生が居て、その内の髮の短い方が高い声で二人に言つた。

「お名前を教えてください」

「……ヘイワジマシズオ」

男は低くそして小さく囁いた。女学生達はその言葉で一瞬、体を強張らせたやうに臨也には思へた。
さうか、こいつが平和島静雄なのかと臨也は改めて男を仰ぎ見た。平和島静雄は白い肌をしてゐる。なんだかどこにでも居さうな男だと思つた。

「俺は、折原臨也です」

二人の内どちらも臨也に尋ねようとしなかつたので、彼は自分で言つた。その言葉で女学生達は自分の仕事を思ひ出したのか、錆びたゼンマイ人形のやうではあつたが動き始めた。

「で、では、こちらの資料をお持ちください」

髮の長い女学生から紙束を受け取ると、臨也と静雄は体育館に入つた。まうすぐ式が始まるのだらう、席は殆ど埋まつてゐた。誘導の声に従つて、二人は後ろの辺りにある席に座つた。丁度二つの席が空いてゐた。男がパイプ椅子に坐ると、ぎりしとそれは軋んだ。

「君は、ヘイワジマシズオと言ふのだね」

臨也は声を潜めて隣の男に聞いた。

「なんだ」

静雄は前を向ひたまま、眉をひそめて鬱陶しげに返事をした。

「俺は、折原臨也と言ふんだ。臨也と呼んでくれてかまはないよ。君のことは静雄君と呼んでいいかな。それから、君はずいぶんと足が速いんだね」

少し早口な言葉で臨也はかう言つた。
すると靜雄は首を動かして臨也の方を見た。

「お前は俺が怖くないのか?」

「何が怖いと言ふんだい。君はただの新入生だらう?」

本当は臨也は平和島静雄といふ男が、酷い乱暴者で喧嘩ばかりをしていて、街のものを壊しまはるやうな男だと知つてゐた。そのため、自動喧嘩人形や池袋の化け物などと呼ばれてゐることも知つてゐた。けれど、彼は無知の振りをして笑顏を作つた。

「きつと俺達は友達になれるよ」

しかし、静雄は臨也から視線を外して、小さくかぶりをふつた。うつむいたその顏は何かの植物を臨也に思はせた。しかしその植物の名前を臨也は知らなかつた。

「きつと俺達は友達になれない」

その言葉は、くびきのやうに臨也の胸に突き刺さつた。

それからずつと、そのくびきは臨也の胸を痛め続けている。





谷崎的臨静を目指したかったんです。








小説top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -