クジラの歌 後



暖かな駅から出て、臨也は雑踏に向かって一歩足を踏み出した。

池袋は夢と同じ曇天で、冷たい風が吹いていた。それこそ悪夢の再現のような気がして、これが現実なのかそれとも夢の続きなのか、唐突に分からなくなる。もしかして、自分はあの夢の続きを知りたいだけなのか。
それでも足踏みを繰り返せば、いつもと同じく池袋の喧噪が臨也を包んだ。人の作り出す心地よいざわめきに身を委ねて、歩を進める。

目的は一つ。ただ、一つのことを確かめたいだけ。

アイフォンを操作して、掲示板にアクセスすれば簡単に平和島静雄の情報が手に入る。まるで常に臨也の手中に居るようで愉快な気分だ。
GPSでもつけておければ楽なのだが、それらの試みは過去にことごとく失敗していた。隙を見計らって細々としたもの――たとえばその鞄や革靴、果ては青いサングラスに取り付けたが、運がいいのか悪いのか、付けた途端に買い替えたり捨てられたり、折れて壊れてしまったり、などということが起きて臨也にしては珍しくGPSを取り付けることをあきらめていた。
どうやらあの喧嘩人形は自分の匂いの付いたものを本能で嫌うらしい。あるいは、運命的に忌避されているようだ。

それでも、例え静雄の人間離れした嗅覚が臨也の匂いを突き止めようとも、街の人々の視線をすべて遮断することはできない。だからこそ、臨也はその無数の視線から得る情報で静雄を追いかけた。普段とは逆の形だ。

上司と食事をしているという目撃情報があったファーストフード店に向かう。まだ店から出てきていないのかあたりは平然としていた。目指すべき店へ進んでいくと、ちょうどその店から出てくる二人組の男たちが目に入った。
トレッドヘアの茶髪に頭一つ分とびぬけた金髪。何やら店の前で会話しているようだが賑やかな街中では何も聞こえては来なかった。臨也は歩調を緩めることなくそこへ近づいていく。策は何もない。ただ静かな緊張と興奮が体中を駆け巡っていた。

穏やかに会話をしている様子だった静雄が、とたんに顔をしかめたのが離れたところからでも分かった。その途端に生まれた殺気と、急に喧嘩腰になった男の様子に辺りの人は小さく悲鳴を漏らしながら、遠巻きに通り過ぎていく。どうやらここにいる人物が誰なのか分かったらしい。

いつの間にかトレッドヘアの上司の姿も見えず、静雄と臨也は雑踏の中、相対していた。

「いーざーやーくーん? テメェ、懲りずに俺の前に現れやがってよぉ。そんなに捩じりつぶされてぇのか?」

ゆっくりとサングラスが外されて内ポケットにしまわれた。裸眼が臨也をねめつける。心臓が高鳴る。ときめきにも似た感情に動かされて、臨也は自然に笑っていた。

「やっだなぁシズちゃん。たまたまだよ、たまたま。俺がシズちゃんの前に現れたとか思っちゃう時点でちょっと自意識過剰なんじゃないの」

臨也も静雄に向かって歩きつつ黒いファーコートからナイフを取り出した。そのまま一条の閃光を描いて投げつけられたナイフを、静雄は掌でつかみとる。その皮膚を切ることなく手中でナイフは砕け散った。
静雄は凶悪に笑う。鋭い犬歯が唇から覗いた。

「ご機嫌な挨拶じゃねぇかよ、このノミ蟲野郎。そーかそーか、お前そんなに死にてぇのか。なら俺が殺してやるよ!」

殺気が空気を震わせる。そのまま近くにあった標識を掴んでへし折ると静雄は怒号を上げながら臨也にむかって走る。本気で臨也を殺す気のようだ。いつもどおりに。
その笑う口元から見える白い歯も額の青筋もすべて臨也が静雄にたいして引き起こしたものだった。ふっと一瞬だけ柔らかな笑みを臨也は浮かべる。それはすぐににやりとした不敵な笑みに変わった。

滑らかに舌は動き、涼やかな声は静雄を挑発する。

「やれるものなら、ぜひやって見せてほしいなあ。喧嘩人形さん!」

走るたびにコンクリートの衝撃が足裏に伝わる。静雄の声が鼓膜を震わせる。高笑いが自然と臨也の喉からこぼれおちた。とても愉快だ。
平和島静雄が折原臨也を追いかけないなんて? そんな馬鹿馬鹿しい空想を思い浮かべた自分を恥じるほどだ。そんなこと、永劫に有りえはしないのに。

一瞬の喧噪を切り裂いて、臨也は逃げた。唇からは奏でるような笑い声と挑発的な罵り声が聞こえそれは何処までも響き渡った。それは永遠に相手を縛り付ける楔だった。



冷たく暗い風が、鬼ごっこを繰り返す二人に等しく吹き付ける。冬の残り香のようなそれにさえ、くつくつと笑みがこぼれてしまうほど、臨也は陽気な気分だった。

もうすぐ春が来る。
臨也と静雄が出会った季節だ。
また一年、相手を殺すことも殺されることもできずに過ごしてきてしまった。それでもなお、変わり続ける街の風景とともに、自分の声の届くところに彼が居続けることばかりを、どこかで願っているような気がして、けれど臨也はそんな思いを思い切り握りつぶした。

そうして、何も知らないふりをして、はははと笑う。高らかに嗤う。








小説top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -